人形佐七捕物帳 巻三 [#地から2字上げ]横溝正史   目次  万歳かぞえ唄  神隠しばやり  吉様まいる  お俊ざんげ  比丘尼宿     万歳かぞえ唄  目かつら万歳   ——そのかぞえ歌がおだやかでない  あらたまの、松飾りもすがすがしい江戸の新春に、ふしぎな万歳があらわれた。  太夫《たゆう》は侍|烏帽子《えぼし》に素袍《すおう》大紋、才蔵《さいぞう》は大黒|頭巾《ずきん》にたっつけばきと、なりはふつうの万歳なのだが、妙なことに、ふたりとも、へんな目かつらをつけている。  目かつらというのは、西洋の悪漢などのつけるマスクみたいなもので、江戸時代お花見などに、一種の仮装としてもちいられたものだが、万歳が、目かつらをつけているというのは珍しい。  それに、かれらの歌って歩くかぞえ歌というのが、また、おだやかでないのである。 「アーラ、ひとつとせえ、ひとびと仕事にはげまんせ、はげまんせ、かせぐに追いつく貧乏神——貧乏神」  かせぐに追いつく貧乏なしなら、話がわかるが、貧乏神はおかしいから、つい、うっかりと見物が、 「おい、太夫、それゃちがうぜ、かせぐに追いつく貧乏なしだろう」  などと、おつにさかしら立って、半畳《はんじょう》でもいれようものなら、 「べらぼうめ、それはむかしの話だ。いまどきは、貧乏神のほうが足がはやいとさ」  と、三河万歳としては、おっそろしく歯切れのいい啖呵《たんか》をきって、 「アーラ、ふたつとせえ、降っても照っても怠けるな、怠けるな、いまに鬼めの年貢取り——年貢取り」  と、才蔵が鼓《つづみ》をたたくと、 「アーラ、三つとせえ、みなさん、辛抱しやしゃんせ、しやしゃんせ、泣く子と地頭に勝てやせぬ——勝てやせぬ」  と、万歳と才蔵が往来ばたで、千鳥がけになって踊ってみせる。  そもそも、万歳と言うやつは、町々の、戸ごとに祝ってあるいて、ご祝儀にありつくのを、なりわいとしているのだから、往来ばたで歌って踊るというのからして、だいいちおかしいというべきである。  そこへもってきて、かれらの歌うかぞえ歌だ。  かせぐに追いつく貧乏神だの、いまに鬼めの年貢取りだの、さては、泣く子と地頭に勝てやせぬ、などという文句は、いかにもお上のご政道にくちばしをいれるようでおだやかでない。  そこで、 「あの万歳はただものじゃねえぜ」  と、ひとりがいえば、 「そうだ、そうだ。あの目かつらからして、だいいち怪しい。ありゃアひょっとすると、民衆をアジって、暴動を起こさせようという魂胆じゃねえか」  などと、なんとなく、薄気味悪くおもっている。  しかし、当の万歳はいっこう平気で、降っても照っても、江戸の町々を流してあるく。  目かしらをつけているので、顔はよくわからないが、太夫のほうが平家がにみたいに平たい顔をしているのにはんして、才蔵のほうは、まるで馬がちょうちんをくわえたように、長いつらをしている。  どっちも、あんまりいい男振りではない。  きょうもきょうとて、その万歳が、筋違御門《すじかいごもん》そとの加賀っ原で、 「アーラ、七つとせえ、泣いておさめた年貢米、年貢米、うちじゃ妻子が飢えている——飢えている」  と、れいによって、節おもしろく踊っていると、 「やい、やい、やい、その万歳、ちょっと待て」  と、ひとだかりをかきわけて、ずかずかと、万歳のそばへよった男がある。見物はそれをみると、おもわず、すわと手に汗握った。  浅草の鳥越《とりごえ》に巣くっているところから、鳥越の茂平次、一名、へのへの茂平次ともいって、ひとから毛虫のようにいみきらわれている岡《おか》っ引《ぴ》き。  おびんずるさまみたいに、色のくろい四十男で、顔じゅうにアバタのあるところから、またの名を、海坊主の茂平次ともいう。  この捕り物帳では、なくてかなわぬ敵役である。  かねてより、この万歳のうたうかぞえ歌のおかしな意味に気のついていた見物は、さてこそと息をのんだが、当の万歳と才蔵も、しまったというように、顔を見合わせている。 「やい、やい、やい」  と、海坊主の茂平次は居丈高になり、 「このあいだから、へんな歌をうたって歩く万歳がいるときいていたが、さては、うぬらだな。もったいなくも、お上をないがしろにするそのかぞえ歌、うぬらいったい何物だ。つらア見せろ、その目かつらとって、キリキリつらを見せやアがれ」  海坊主が反っくりかえって、あわを吹いたから、万歳と才蔵は、迷惑そうに顔を見合わせていたが、やがて、万歳がペコペコしながら、 「親分、どうぞ、それだけはご勘弁を……」  という声をきいて、茂平次は、おやとばかりに目をいからせた。 「おや、そういう声には聞きおぼえがある。いったい、うぬは何物だ」  と、茂平次がいよいよ居丈高になるのを、そばから才蔵がなだめるように、 「親分、親分、あんた、まあ、よろしおまっしゃないか。これにはわけのあることだす。ここはひとつ、大目に見といておくれやすな」  と、なめらかな大阪弁をきいて、海坊主はぎょっとばかりに息をのんだ。 「や、や、や、なんだ、なんだ、てめえたちは、お玉が池の辰《たつ》と豆六」 「しっ、親分、そんな大きな声を出すもんじゃありませんや。だが、そうわかれば、親分、この目かつらをとるまでもありますめえ。おい、豆六、じゃなかった、才蔵どん、それじゃボツボツいこうぜ」 「よっしゃ、それなら海坊主……やなかった、鳥越の親分、ごめんやすや、ポンポン」 「四つとやあ、黄泉《よみ》の国から鬼がくる、鬼がくる、血の池地獄に針の山——針の山。親分、おさきに」  と、辰と豆六がいきかけるのを、 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ。辰兄いに豆六兄さん、ちょっとぐれえ、待ってくれてもいいじゃアねえか」  海坊主の茂平次が、柄にもなく、ねこなで声で呼びとめたから、辰と豆六、はてなとばかりに足をとめた。 「親分、まだなにかあっしらに、御用の筋がおありなんで」 「辰兄い、なにもそう、改まるこたあねえじゃねえか。おれとおまえたちとは長いなじみだ。ちょうどさいわい、いまは正月、ちょっと一杯、つきあってくれてもいいじゃねえか」  日ごろケチで因業《いんごう》でとおっている海坊主が、いよいよもってねこなで声で切り出したから、辰と豆六、はてなとばかり、気味悪そうに目かつらごしに顔見合わせた。 「兄い、こら、けったいな風向きになってきよった。まゆ毛にたっぷり、つばつけとかんとあきまへんで」  豆六が耳もとでささやくのを、きいているのかいないのか、辰はわざともみ手をしながら、 「それじゃ、親分があっしらに、一杯おごってくださろうとおっしゃるんで」 「いや、なに、おごるというほどのことでもねえが、正月だあな、一杯ぐれえ、つきあってくれてもいいじゃアねえか」 「へえ、それゃアもう、酒ときたひにゃ目のないこちとら……」 「兄い、兄い……」 「てめえは黙ってろ、せっかくお情けぶけえ海坊主……じゃなかった、鳥越の親分が、お役目がらとはいえ、辰と豆六、この寒空にご苦労、ご苦労とあって、ああいって、いたわってくださろうとおっしゃるんだ。大いにいたわっていただこうじゃねえか。しかし、親分」  辰はいよいよいやらしくもみ手をしながら、 「ただ、ごちそうになってよろしいんでしょうねえ。海坊主……じゃアなかった、鳥越の親分たるものが、まさか、魚心あれば水心……なあんて、さもしいことをおっしゃるんじゃないんでしょうねえ」 「う、う、う……」  図星をさされて、海坊主の茂平次め、目をシロクロさせながら、 「いや、なに、辰、そのことだがの」  と、いよいよねこなで声も気味悪く、 「いま、おめえ、お役目がらといったな。そうすると、豆六とふたりでこんな万歳をやっているのも、なにか御用の筋というわけかえ」 「それゃアそうでしょうよ。だれが道楽や粋狂で、こんなバカなまねができますものか。なあ、豆六」  豆六もやっと、辰の意のあるところをさとったとみえ、 「そら、そうだすがな。うちの親分、また、えらいネタを拾いあげてきやはった。そこで、わてらがこないな、あほなまねしてるちゅうのんも、これで大魚をつりよせんと……」 「おっと、豆六うじ、みなまでのたまうべからず。はかりごとは密なるをもってよしとすだあね」  と、すこぶる意味深にもちかけられ、海坊主はもう気が気でないという顔色で、 「だからさあ、辰兄いに豆六うじ、一杯つきあってくれてもいいじゃアねえか。なにもなげえつきあいだ。きょうはうんと奮発するぜ」 「そして、あっしらを酔わせておいて、そのネタをさぐり出そうとおっしゃるんで」 「そやそや、そして、うちの親分の手柄を、横取りしたろちゅう魂胆だっしゃろ」 「う、う、う」  さては、心中見すかされたかとばっかりに、おびんずる様はいよいよもって、目をシロクロさせながら、 「なにもそう、水くせえこといわなくてもいいじゃねえか。佐七とおれとは切っても切れぬふかい仲、ちょっくらすけてやろうというんだ。だからさあ、ちょっと一杯……」 「よしゃアがれ!」  ここにいたってガゼン、辰の威勢のいい啖呵《たんか》が爆発した。 「うちの親分と切っても切れぬふかい仲がきいてあきれらあ。いつも親分の小股《こまた》をすくって、そのつど逆に、ほえ面かいてるてめえじゃねえか」 「そやそや、わてらを買収して、親分のさぐりあてたこの大穴をかぎつけようとしやはっても、その手は桑名の焼きはまぐりや。わてら、そないな産業スパイとちがいまっせ」  まさか、そんなことはいやアしまいが。 「豆六、それじゃ、こうじゃねえか。十うとやあ、遠い昔がなつかしい、なつかしい……」 「いまでは水牢《みずろう》火の責め苦——火の責め苦——親分、ごめんやすや。ポンポン」  鼓たたいて辰と豆六がいきすぎようとするうしろから、とうとう海坊主の大雷が爆発した。 「やい、やい、やい、辰と豆六、待てといったら待たねえか」 「親分、まだ、なにかご用がおありで……?」 「それじゃ、てめえら、おれがこんなに頼んでも、つきあうのはいやだというんだな」 「へえ、おあいにくさまだっけど、兄いもわても親分によういわれてまんねん、こういう稼業《かぎょう》をしているかぎり、タダ酒飲んだらあかんちゅうてな」 「ヘン、だれが海坊主なんかの口車にのるもんか。手柄にしたくば、じぶんで探りをいれてみろ、この唐変木《とうへんぼく》めが」 「おのれ、おのれ、ぬかしたな、ほざいたな、わめいたな、ようし」  ここにおいて、ガゼン、海坊主の本性あらわし、吹いたわ、吹いたわ、かにのあわ。 「けえったら佐七にそういっとけ。おまえらの歌っているその歌はな、お上の御政道にケチをつけるアジテーション。言論の自由にもほどがある。検閲制度にかけても、きっと佐七をふん縛ってみせにゃおかぬわ」  居丈高になってののしれば、そうでなくとも、いささかしりこそばゆい辰と豆六。 「おっと、承知、なんとでもいうがいいや」 「兄い、長居は無用や、はよ、いこやおまへんか」  こそこそ、その場を逃げ出したが……。  血煙両国橋   ——瀕死《ひんし》の怪我人がうたうかぞえ歌 「……と、そういうわけで、親分、海坊主のやつがよけいなところへとびだしてきゃアがったんで、すっかりしりがわれちまいまして……」 「しりがわれたとなると、てれくそうて、あんなけったいな万歳、やっとれまへんやないか。そこで、少し早いとおもたけど、きょうはそのまんま、引き揚げてきましてん」  と、それからまもなく、お玉が池へかえってきたふたりの話を聞くと、佐七もおもわず吹き出した。 「あっはっは、それじゃ、鳥越の兄貴にとっつかまったのか。鳥越もさぞおどろいたろう」 「それゃアもう。しかし、親分、そう笑っていていいんですかねえ」 「あの海坊主め、目を三角にして、おまえらの歌うかぞえ歌は、お上をないがしろにするアジや、言論の自由にもほどがあるちゅうて、えろうあわ吹いてましたけんど」 「そうだ、そうだ、検閲制度にかけても、きっと佐七をふん縛ると、反っくりかえっていきまいてましたが、親分、大丈夫なんでしょうねえ」 「それゃアわからねえ。ひょっとすると、鳥越のいうとおり、おいらの笠《かさ》の台がとぶかもしれねえ。そのときは気の毒だが、一蓮托生《いちれんたくしょう》で、おまえたちも累《るい》をまぬがれねえかもしれねえ」 「そんなこたア覚悟のまえですが、しかし、海坊主みてえなやつにしてやられるのは、悔しいじゃアありませんか」 「そやそや、親分とごいっしょなら、かぞえ歌やおまへんけど、たとえ血の池地獄に針の山、そら、かましまへんけんど、あないなおびんずるさんみたいなやつに威張りちらされるかと思うと、わて、業が煮えてたまりまへん」  いや、辰も豆六も、悲壮な覚悟をしたものだが、佐七はこともなげに笑いながら、 「だから、なるべくならば、そうならねえようにしてえもんだが、ときに、鳥越はおまえたちに一杯おごって、なにか探りだそうとしたというんだな」 「そうなんです。あのしみったれの海坊主が、あれだけいうんですから、よっぽど気になったんでしょうねえ」 「そやそや、いやらしいほどねこなで声で、一杯おごろうの、つきあえのと……」 「はてな」  と、佐七が首をかしげたから、 「親分、はてな……と、おっしゃるのは……?」 「いやさ、そこまできついご執心とは、鳥越にも、なにかあのかぞえ歌に、心当たりがあるんじゃねえか」 「わっ、しもたッ」 「豆さん、しもたってなにが……」  と、そばにいるお粂《くめ》に聞かれて、豆六は頭をかきかき、 「そやそや、親分にそうおっしゃられてみれば、たしかにそうだすわ。えらいご執心やったさかいにな。そんなこととしっていたら、兄い、あいての誘いにのったような顔をして、ぎゃくにむこうの腹を探ってやったらよろしおましたのんになあ」 「だから、豆六、下衆《げす》の知恵はあとからよ」  辰はよくおのれを知っている。  お粂はそばから不安そうに、 「しかし、おまえさん、鳥越がこの一件に、なにか心当たりがあるとしたら、いったい、なにを知ってるんでしょうねえ」  お粂もまた、海坊主ときいただけでも血の道が起ころうという、アンチ茂平次派の急先鋒《きゅうせんぽう》だけに、なんとやら胸騒ぎをおぼえるのである。 「さあ、そこまではおいらにもわからねえが、どちらにしても、辰と豆六、もうしばらく辛抱して、あの万歳をつづけてみてくれ」 「へえ、それじゃまだやらなきゃいけねえんですか」 「そら、殺生や。そらまあ、親分のためなら、たとえ火の中、水の底だっけど、あの万歳ばっかりは、てれくそうて、どもなりまへんわ」  と、首をすくめるふたりのようすに、お粂はおもしろそうに笑いながら、 「辰つぁんも、豆さんも、なにもそんなにしょげることはないやね。あたしゃこのあいだ、おまえさんがたの万歳をこっそりみたが、感心したよ。すっかり板についた万歳さんで、あれじゃ本職はだしだねえ」 「ちっ、なんとでもおいいなさいまし。いまに親分のまきぞえで、あねさんなんかも笠《かさ》の台がとぶかもしれねえというのに」 「おお、そんなことは覚悟のまえ。豆さんじゃないけれど、あたしだってうちのひとのためならば、たとえ火の中、水の底。ねえ、おまえさん」  と、デレリと、佐七に寄り添ったから、 「兄い、うだうだいわんとおおきやす。あねさん、それがいいとうてしょがおまへんのやないか」  などなどと、ここお玉が池は初春早々、和気あいあいたるなかに、悲壮なような、楽しいような、また、一種異様な緊張の気がみなぎっているが、それには、つぎのような子細がある。  年も押しつまった去年の暮れのある夜のこと、佐七は舟で向島からくだってきた。  むろん、辰や豆六もいっしょだったが、舟が両国橋へさしかかったとき、橋の上から、キャッという悲鳴が聞こえたかとおもうと、 「人殺しイ……助けてえ」  という叫び声。  三人はぎょっとうえを仰いだが、鳥じゃないから、飛んでいくわけにはいかぬ。 「おお、どうした、どうした、しっかりしろ」 「いま、助けにいったるぜ」  くちぐちにわめいているところへ、じぶんでとびこんだのか、突きおとされたのか、ドボンと落ちてきたひとりの若者。  佐七はすぐに船頭にめいじて、舟のうえへ救いあげたが、みると右の目じりにホクロのある、二十二、三のいい若者が、右から左へ、袈裟《けさ》がけに切られており、かなりの深手で正体もない。  佐七はすぐに舟を河岸へつけさせると、けが人を橋番小屋へかつぎこみ、あらためてそのへんを探してみたが、下手人の姿はどこにもみえなかった。 「畜生ッ、逃げ足のはやいやつだ。意趣か物取りか、ひでえことをしやアがる。もし、おまえさん、しっかりしなせえ。傷はあさい」  さいわい、若者は、まだ死にきってはいなかった。虫の息ながらも、からだに温かみがのこっている。 「おお、とっつぁん、なにをまごまごしてるんだ。はやく医者を呼んでこねえか」  佐七にしかりつけられて、橋番のおやじはあたふたと小屋をとび出していったが、まもなく医者をつれてきた。  医者はひととおり診察すると、 「これは……」  と、首をかしげている。 「先生、いけませんか」 「いや、いけぬということはないが、よほど大事にしなきゃ……治るとしても、十日や二十日は、このままにしておかねばなるまい」 「先生、このままにしておけとおっしゃっても、こんなところへいつまでも寝かしておくわけにゃまいりませんが……」 「いったい、どこの御仁じゃな。近いところなら、戸板にでも乗せていけばよいが……」  そういわれて、あらためて、ふところを探ってみたが、身元をしる足しになるようなものは、なにひとつ持っていなかった。 「ちっ、しようがねえな。親分、しかたがねえから、ひとまず、あっしの伯母《おば》さんとこへ担ぎこむことにしようじゃありませんか」  きんちゃくの辰に、お源という伯母があって、本所緑町に住んでいることは、佐七もよくしっているから、 「おお、それはいいところへ気がついた。それじゃ、そういうことにしてもらおうか。お源さんには気の毒だが……」  医者が、手当をしてかえっていくと、佐七はあらためて橋番のおやじに、さっきのことを尋ねてみたが、なにせ、橋番などしているおやじに、ろくなやつはない。はんぶんもうろくしているのだから、水っぱなをすするばかりで、下手人の人相風体、なにひとつしっていなかった。  佐七もいいかげんにあきらめると、それからまもなくけが人を戸板にのせて、お源のところへ担ぎこんだ。  お源もこれにはおどろいたが、もともとこの女は、諜者《ちょうじゃ》のようなことをしていて、ときどき佐七からお小遣いをもらっているような女だから、いやな顔はしなかった。 「それじゃお源さん、すまねえが、預かっておいてくれ。あすまた、出掛けてくるからな」  その晩は、いったん、お玉が池へひきあげたが、さて、翌日出向いてみると、 「親分、妙なことがあるんですよ」  と、お源が声をひそめてささやくのに、けが人はまだ眠りつづけているが、ときおり、うわごとに、歌をうたうというのである。 「歌を……」 「そうなんですよ。それもただの歌ではなく、妙なかぞえ歌なんです。あまり変だと思ったから、ここにうつしておきましたが……」  お源のうつしとったのは、ひとつとせだけだったが、佐七はふしぎそうにまゆをひそめて、 「ほほう、妙なかぞえ歌だな。かせぐにおいつく貧乏神……お源さん、まさか、聞きちがいじゃあるめえな」 「いいえ、わたしも変だと思ったんですけれど、たしかにそういうんです」  お源が気味悪そうにささやいたとき、 「ふたつとせ……」  とつぜん、けが人が歌いだしたから、佐七をはじめ辰と豆六、おもわずぎょっと顔を見合わせた。  瀕死《ひんし》のけが人が、うつつに歌うかぞえ歌。それはなんともいえぬ無気味さだった。 「お、親分……」 「黙ってろ、お源さん、筆と紙を……」  けが人はふたつとせを歌いおわると、またこんこんとふかい眠りにおちていく。佐七はつくづくと、その顔を見守りながら、 「なんだか妙なかぞえ歌だが、この男にとっちゃ、よほど気にかかる歌なんだな。お源さん、すまねえが、こののちともに気をつけて、病人が歌いだしたら、片っぱしから、ひかえておいてくれねえか」 「はい、それはお安い御用でございます」  お源が根気よく、かぞえ歌のあらかたをうつしとるに三日かかった。  若者の容態は一進一退で、おりおり、夢うつつにほそぼそと、かぞえ歌を歌うほかは、こんこんとして、ふかい眠りをつづけるのである。  こうして年が明けたが、それでも春とともに若者もいくらか持ちなおして、ちかごろでは、おかゆぐらいはすすれるようになったが、困ったことに、かれはすっかり、昔のことを忘れているのである。  いまのことばでいえば記憶喪失症。  つまり、あの事件のショックで、じぶんがだれだか、それさえ、忘れてしまったのである。おぼえているのは、あの奇妙なかぞえ歌だけ。 「辰、豆六、こいつはいけねえ」  うつろの目をみはって、かぞえ歌をうたう若者を見ながら、佐七はふかいため息だ。 「こうなっちゃ、かぞえ歌だけが手がかりだ。これから手ぐっていくより、しようがあるめえな」 「親分、そんなことができまっか」 「できるか、できねえか、やってみるまでよ。いわくありげなこのかぞえ歌、いちどきいたら忘れめえ。こいつを、江戸中流してあるいたら、ひょっとすると、身寄りのものをつりよせることができるかもしれねえ。それについて、辰と豆六、こりゃアどうしても、てめえたちの力をかりなくちゃならねえが……」  というわけで、辰と豆六のおとり万歳ができあがったというわけである。  つり寄せた娘   ——立ち聴くくし巻きに尾行する藍微塵《あいみじん》 「じゃ、親分、まだ万歳をやらなきゃアいけませんか」 「ふむ、まあ、もうすこし辛抱してくれ。ここでやめちまっちゃ、いままでの骨折りもむだになる。おらアどうでも、この一件のうしろにゃ、大きななぞがあるように思われてならねえんだ」 「しようがおまへん。親分がそないにおっしゃるんなら、照れくさいけど、兄い、もうすこし、辛抱しよやおまへんか」 「ふむ、よくいってくれた。それでこそ、辰だんなに豆六兄いだ」 「親分、おだてちゃアいけません」  と、にが笑いをしながらも、辰と豆六、御用とあればしかたがない。  そのごも毎日鼓をたたいて、変なかぞえ歌を流していたが、すると、ある日、八辻《やつじ》ガ原から柳原堤へさしかかろうというところで、 「ああ、もし、そこの万歳さん」  と、うしろから、呼びとめたものがある。まだ十七、八の娘であった。 「へえ、あっしになにか御用で」 「はい、あの、ちと、おたずねいたしたいことがございまして……」  色白のかわいい顔立ち、肩当てのあたったきものに、つめあかぎれをきらしているのは、所帯の苦労をおもわせるが、それにしても、おもてに漂うくらいかげは、所帯やつればかりではなさそうだった。 「ほかでもございませんが。いつもあなたのお歌いになるあの歌は、ごじぶんでお作りになったのでございますか」 「えっ、なんとおっしゃる」  辰と豆六は、すばやい目くばせ。娘はおどおど、たもとのさきをいじりながら、 「つかぬことをおたずねするようですが、あのかぞえ歌を、ほかで聞いたことがございますので……」  辰と豆六は顔見合わせて、 「おまえさん、もしやそれ、右の目じりにホクロのある、わかい男じゃありませんか」  娘ははじかれたように顔をあげて、 「ああ、それじゃあなたは、ご存じなんですね。善之助《ぜんのすけ》をご存じなんですね」 「善之助さん——と、おっしゃるんですか」 「はい、善之助さんでございます。目じりにホクロのある……そして、あのかぞえ歌をしってるかたは、善之助さんよりほかにございません。もし、善之助さんはどこにいます。後生ですから、会わしてください」 「へえ、そら、会わせろちゅうなら、会わせもしますが、そういうあんたはんは……?」 「これは失礼いたしました。わたくしは薬研堀《やげんぼり》にすむ伏見焼きの人形作り、幸兵衛《こうべえ》というものの娘で、お美乃《みの》ともうします。善之助さんとはゆかりのもので……」  お美乃がなんとなく、はじらいがおにいいよどむのを、辰ははやくものみこみがおで、 「ああ、さようで。それはちょうどさいわい、じつは、あっしのほうでもあのひとの身寄りのひとを探していたところです。だが……」  と、辰はあたりを見まわしていたが、なに思ったか、ふっとまゆをひそめると、 「もし、お美乃さん——でしたね」 「はい」 「ここで立ち話もできません。本所緑町に、あっしの伯母が住んでいるから、おまえさんひと足さきに、そこへいっていてくださいませんか。緑町の自身番で、三味線ひきのお源ときけばわかります。なに、心配することはありません。善之助さんのことについて、いろいろ言いたいことや、聞きたいことがあるんです」  善之助という名前は、お美乃にとって、なにものよりも強い力を持っているらしい。なんのためらいもなく、 「はい、まいります。お源さんというひとですね」 「そうです、そうです、三味線ひきのお源です。万歳の辰から聞いてきたといってください。おいらも、すぐあとからいきます」 「それでは、おさきに……」  柳原の土手ぞいに、浅草御門のほうへいそいそといそいでいくお美乃のすがたを見送って、豆六はふしぎそうに、辰のほうをふりかえった。 「兄い、どないしやはってん。なんでいっしょにいかへんねん」 「しっ、だまってろ。さっきから、変な野郎がつけてくるんだ、バカ、ふりむくやつがあるか。豆六、おまえとここで別れよう」 「え、兄い、別れてどないしまんねん」 「ここでおめえと別れりゃ、つけてくるやつは困るだろう。それでもし、そいつがおれをつけてくれば、おまえこっそり、逆に、そいつをつけてみろ。なに、その万歳衣装をぬいで、目かつらをとってしまえば、わかりゃしねえや。もし、そいつがおまえをつけていくようだったら、逆におれがつけてやる。いいか、わかったな」 「よっしゃ、そんなら、兄い、あばよ」  さすがは兄貴分だけあって、辰もそこまではよかったが、上手《じょうず》の手から水が漏れるのたとえもあり、ましてや、あんまり上手でない辰のことだから、そこに大きな見落としがあったのも、むりのないところかもしれぬ。  さっきから、土手のうえの柳にもたれて、ぼんやりと立っているひとりの女、川のほうをむいているので、顔は見えないが、むぞうさなくし巻き、小弁慶のあわせに、繻子《しゅす》と博多《はかた》の腹合わせ帯。柳にもたれたかっこうにも、どこか所帯くずしらしい伝法さがみえるのだ。  おおかた、待ち人でもあるのだろうと思っていると、さにあらず、辰と豆六が立ち去るのを待って、土手からかけおりると、お美乃を追っていちもくさん。どうやら、さっきからの話を、立ちぎきしていたらしい。  そんなこととはしらぬきんちゃくの辰、筋違《すじかい》御門を出るとお成り道、両国へいくにはまわり道だが、それも用心のあらわれだ。たしかにだれかがつけてくるのを意識しながら、お成り道から小笠原《おがさわら》の屋敷をまがると、とつぜん、つけてくる男のすがたが消えた。  おや、それじゃおれの思いちがいだったか。辰は小首をかしげながら、それでもひとけのない寂しい道を、用心しながらあるいていくと、とつぜん、長者町のほうからやってきた男が、いきなりどんと、真正面からぶつかった。  避けるひまもなかったのである。辰はあっと仰向けざまにひっくりかえったが、打ちどころでもわるかったのか、それきり動かなくなってしまった。 「おっと、ごめんよ、万歳さん」  男は雪駄《せった》の足をとめると、おどろいたように駆けよって、 「ど、どうしたんだ、どこかけがでもしなすったか」  と、辰のからだを抱きおこしたとたん、男の目がギロリと光った。藍微塵《あいみじん》の素あわせに、そろばん絞りのほおかぶり、どこかすごみのある男で。 「これ、しっかりしなよ。これ……」  あたりを見まわしながら、辰のふところから引きだしたのは、あさぎ色の財布である。中をあらためたが、金には目もくれず、 「ちっ」  財布をその場に投げだすと、なおも、たもとや懐をさぐっていたが、そのとき曲がり角のむこうから、だれかやってくる草履の音。くだんの男はそれをきくと、ちっと舌を鳴らして、そのままむこうの横町へすがたを消した。  やってきたのは豆六だった。 「あっ、兄い」  びっくりして駆けよるのを、 「ここはいいから、いまのやつをつけろ」 「兄い、大丈夫か」 「大丈夫ってことよ。出会いがしらにどんと一発、あいつをまともにくらっていちゃ、それこそ、ほんとにあわを吹くところだ。ここはいいから、早くつけろ」 「おっと、がってんや」  駆けだす豆六のうしろ姿を見送っておいて、辰はその足で緑町へ……。  連れ去られた娘   ——わけても伏見は修羅《しゅら》地獄 「伯母《おば》さん、いるかえ」  本所緑町の裏通り、かどに髪結い床と酒屋があって、その路地をはいっていくと、長屋は長屋ながら、九尺二間よりはいくらかましな格子づくり。  お源はきれいずきだから、よくみがきこんだ格子戸をあけると、そこがせまいたたきになっており、辰の声を聞きつけて、上がりかまちの障子をひらいて顔を出したのは、思いがけなくお粂であった。 「おや、辰つぁん、ご苦労さま。なにかこちらのご病人さんにご用かえ」 「あれ、あねさん」  と、辰は上がりかまちに腰をおろして、素袍《すおう》大紋の袴《はかま》のすそをはらいながら、 「あねさんこそ、どうしてこちらへ」 「なにさ、ご病人さんを預けっぱなしじゃ申しわけがないから、ちょっとごあいさつにきたのさ」 「あいかわらず義理がたいことで……で、親分は……?」 「いえ、それがさ、八丁堀《はっちょうぼり》の神崎《かんざき》様から、なにか火急の御用とやらで、そっちのほうへお出向きさ。あたしゃちょっとその留守をぬけてきたんだが……」 「はてな。正月早々、八丁堀のだんなから火急のお召しとはなんだろう」  と、素袍大紋の腕をたくしあげ、上がりかまちの障子をはいると、そこが六畳の居間になっており、置きごたつにお粂とむかいあって座っていたお源が、長火ばちのうえでもちをやいているところだったが、辰のすがたをみるとプッと吹き出し、 「辰、たいそうお似合いじゃないか。いま、あねさんとも話していたんだが……」 「へん、なんとでもおいいなさいまし。こっちは御用と思えばこそだ。ときに、ご病人さんは……?」  辰もこたつへもぐりこむと、声をおとして、おくのふすまへあごをしゃくった。 「いま、すやすやとおやすみさ。あいかわらず取りとめがなくってねえ。辰、もちが焼けたからおあがりな」 「おっと、ありがてえ。おりあたかも、腹は北山とおいでなすった」  と、辰がもちをほおばっているそばから、お粂がふしぎそうに、 「ときに、辰つぁん、才蔵さんはどうしたのさ」  聞かれて、とたんに辰はもちをのどにひっかけて、 「う、う、う……わ、わ、わ……」  と、目をシロクロ。  おどろいたのはお粂とお源、あわてて左右から、背中をたたくやら、なでるやら、 「辰つぁん、しっかりおし。いったいどうしたというんだねえ」 「お、お、伯母さん、おぶうを……おぶうを……」 「あいよ。辰。なにがどうしたというのさあ」  と、お源があわててくんでだす白湯《さゆ》をガブリとひと息にのんで、 「あ、ちッ、ちッ……!」  いやはや、たいへんな騒ぎもあったもんで、しかし、その騒ぎのおかげでもちもとびだし、辰もどうやら命拾いをしたというのだから、初春早々、だらしのないことおびただしい。  これだけ騒がせたあとで、辰はにわかにキョロキョロあたりを見まわして、 「それはそうと、伯母さん、お美乃さんはどうしましたえ」 「お美乃さん? お美乃さんていったいだれだえ」 「おや、それじゃまだこないのかな。そんなはずはねえがなあ。いかに女の足だって……おいら、ずいぶんまわり道をしてきたんだから」 「辰、おまえだれかと、ここで落ちあう約束をしたのかえ」 「そうなんだ。あのかぞえ歌をしってるってえ娘と、ここで落ちあう約束をしたんだ。お美乃という娘だが、伯母さん、そんな娘がたずねてこなかったかえ」 「しらないねえ。いったい、どんな娘さんだえ」 「どんな娘って、十七、八の、肩当てのあたった着物を着て、なりはよくねえが、えくぼのかわいい……」  辰の話をきいているうちに、お粂の顔色がさっとかわった。 「辰つぁん、それ、どういう話なのさ。おまえさん、その娘さんとどこでお会いだえ」 「へえ、じつはこういう話なんで……」  と、柳原堤でお美乃という娘に声をかけられたいきさつから、長者町の町角で、どんと一発、くらいかけたてんまつまで、語っているうちに、お粂の顔色はいよいよ悪くなってきた。 「辰つぁん、いけないよ。おまえさん、その娘さんと立ち話をしているところを、もうひとりほかに立ち聞きされたにちがいない」 「そ、そ、それゃまたどういうやつに……?」 「小弁慶のあわせにくし巻きの、すごいような大年増さ。おまえさん、そんな女に心当たりはないかえ」  お粂のことばに、こんどは辰の顔色がさっとかわった。そういえば、そんな女が、土手のうえにたたずんでいた……。 「あねさん、おまえさん、どうしてそれを……」 「いいえさ。あたしゃおまえさんより、ひと足さきにここへきたんだが、路地の入り口の酒屋のまえまでくると、いまいった大年増と、肩当てのあたった小娘が、なにやら立ち話をしていたよ。畜生ッ!」 「あねさん、ど、どうかしましたか」 「いいえさ、その大年増というのが、あたしの顔をみると、ふっと顔をそむけるのさ」 「あねさん、それじゃその女は、あねさんをしってたんですか」  お源もそばから不安そうにひざのりだした。 「いまから思えばそうとしか……しかし、そのときは深くも考えず、きざなまねをすると思っただけだったが、そういえばあの横顔……どこかでみたような気がするわねえ」 「それで、あねさん、その大年増が娘をどうしたんです」 「それだよ、辰つぁん、あたしが角を曲がってここへくる途中、なにげなくふりかえると、大年増と娘さんとが連れだって、むこうへいくうしろ姿がみえていた。あたしゃまさかその娘さんが、ここへくる途中とは気がつかなかったから……」 「しまった、畜生ッ、畜生ッ、それじゃそのくし巻きの大年増が、娘をだまくらかして、つれていきゃアがったんだな」 「辰、気をつけなきゃいけないよ。おまえさんはもう何年、親分さんのお世話になってるんだえ」  と、そばからお源がおろおろ声。 「いいよ、いいよ、お源さん、人間だれでも、見落としはあるものさ。それより、じれったいのはあたしだよ。あの女、どこで会った女かしら」  お粂はえりにあごをうずめて考えこんだが、思い出せないままにあきらめ顔で、 「しかし、辰つぁん、おまえさんのあとをつけてきたすごみな男とあの大年増、なにか関係があるんだろうかねえ」 「さあ、そこまではあっしにもまだ……」 「ときに、辰や、そのお美乃さんという娘だが、住まいは……?」 「おっと、そうそう、薬研堀に住む伏見焼きの人形作り、幸兵衛というものの娘だとかいってましたっけ」 「えらいッ、辰つぁん、そこまでわかってれゃア大手柄だよ。それで、男のほうは豆さんがつけてったんだね」 「へえ、ここで落ち合う約束になってるんですが……それにしても、あの野郎、なにをねらってやアがるんでしょう」 「というと……?」 「いえね、あっしが一発くらって、気を失ったふりしてると、野郎、懐をさぐりにかかりゃアがった、そして、財布をひきずりだして、なかみを調べてやアがったが、お鳥目にゃア目もくれねえ。もっとも、あっしの財布だから、大してはいってるはずはありませんがね」 「ということは、辰つぁん、そいつのねらってるものは、銭金じゃないということだね」 「そうです、そうです。お鳥目のほかに、なんにもはいってねえことがわかると、ちっと舌打ちして、こんどはたもとをさぐりにかかりゃアがった。そこへ豆六がやってきたので、あきらめて逃げだしていったんです」 「そういえば、辰」  お源もひざをのりだして、 「奥にねていらっしゃるご病人さん、善之助さんとおっしゃるのかね」 「お美乃という娘はそういってましたね。右の目じりにホクロがあるといってましたから、たしかにあのけが人にちがいねえが……」 「その善之助さんとやらも、親分さんに助けられたとき、なにひとつ持っていなかったとか……」 「伯母さん、それがなにか……」 「だからさ、そいつのねらっているのは、なにか書き物かなんかじゃありますまいか。ねえ、あねさん」 「お源さん、あたしもいまそれを考えていたところだが、そうだとすると、そいつらにとって、よっぽど大事な書き物にちがいない……」 「そして、あねさん、それゃアやっぱりあのかぞえ歌と関係が……?」  辰が声をおとしたとき、ふすまのむこうから聞こえてきたのは、蚊のなくような声でうたうかぞえ歌。しかも、それはお源もいま聞くのがはじめてだから、いそいで筆と紙を用意した。 「八つとやあ、大和《やまと》山城怖いとこ、怖いとこ。わけても伏見は修羅《しゅら》地獄——修羅地獄……」  三人ははっと顔を見合わせた。  善之助の口から伏見という地名が出たのは、これがはじめてである。しかも、お美乃の父の幸兵衛というのは、伏見焼きの人形作りとやら。  辰がなにかいおうとしたとき、またもや聞こえてきたのは、蚊のなくようなかぞえ歌。 「十うとやあ、遠い昔がなつかしい、なつかしい。いまでは水牢《みずろう》火の責め苦——火の責め苦……」  それは陰々滅々として、冥府《めいふ》のやみからさまよい出た亡者の声のようである。  いったい、あの若者は、伏見とどのような関係があるのだろうか。そして、どのような秘密をいだいているのであろうか。  御朱印の吉五郎   ——けったいな雲行きになってきよった 「五つとせえ、いつも鬼めがやってくる、やってくる、身ぐるみはいでも持っていく——持っていく……」  若者の歌うあやしのかぞえ歌は、語尾がふるえてかすれたが、それでも、ひと息入れると、ことばをついで、 「六つとせえ、むごいようでもあまっ子は、あまっ子は、身売りするよりほかはない——ほかはない……」  そこまで歌ったが、それが精一杯だったらしい。そのまま、絶えいるように消えてしまって、善之助はまた夢うつつ。  シーンとそれに聞きいっていた三人は、ゾクッと顔を見合わせたが、お粂がきゅうに気がついたように、 「辰つぁん、これゃいけないよ。あのけが人さんを、このままこちらへお預けしとくわけにゃいかないよ」 「あねさん、それゃまたどうして……?」 「だって、藍微塵《あいみじん》の男と、くし巻きの女がぐるだとすると、いまごろはお美乃という娘さんの口から、この家のことが耳にはいっているにちがいない」 「あっ!」 「といって、あのからだじゃ、ここからお玉が池までじゃアねえ……」 「あねさん、それならわたしにまかせてください。この近所にゃ、わたしのお仲間がおおぜいおります。みんなわたしとチョボチョボの連中ですが、なかにゃ侠気《おとこぎ》にとんだ顔役さんもおりますし、血の気の多いわかい衆もおおぜいいます。お玉が池の親分さんのお頼みとあれば、みなよろこんでひとはだぬぎましょう。いちじ、ご病人さんを戸板にでものせて、顔役さんのところへかわしましょう。あいてがどういうやつかしらないが、指一本、ささせることじゃございません」 「お源さん、ありがとうよ。すまないが、そうお願いしようか」 「ええ、ええ、ようございますとも。辰、あとでおまえも手を貸しておくれ。あたしゃちょっと顔役さんとこへお願いにいってくるから」  といってるところへ、とびこんできたのは豆六だ。  だいぶあちこち駆けずりまわってきたとみえ、うらなりのきゅうりみたいな顔を、いよいよげんなり、寸をのばしていたが、もち網のうえにふくれあがっているもちをみると、にわかにいきいき目をかがやかせて、 「わっ、うまそうなにおいがすると思たら、やっぱりこの家だしたかいな。ごっつぉはん、遠慮なしにちょうだいしまっせ」  ひとくちほおばったのはよかったが、たちまち目をシロクロさせて、 「う、う、う、く、く、苦しい、おぶうを……おぶうを……兄い、た、た、助けてえ!」 「なんだ、もちがのどにつかえたのか、やれやれ、かわいそうに、あんまりガツガツするからよ。ほら、ほら、おぶうだ」  辰がわざと、煮えくりかえった湯をついでだすと、ガブリとひとくち飲んで、 「あっちっ、ちっ、ちっ!」  いやはや、兄貴分が兄貴分なら弟分も弟分、お粂とお源は、おもわず腹をかかえてわらいころげた。 「なんや、なんや、なんや、ひとが死ぬほど苦しい思いしてんのに、笑いころげるとはなにごとだす。兄いも兄いや、さては、わざとわてに煮え湯をのまさはったんやな」 「まあいい、まあいい、勘弁しろ。それより、首尾はどうだったえ」 「おっと、そのこと、そのこと、それがなあ、あねさんも兄いも、けったいな雲行きになってきましてん」  と、豆六はなおも懲りずに、もちをほおばっていたが、急に気がついたように、あたりを見まわし、 「それより、お美乃はんちゅう娘は、どないしやはりましてん。もうかえらはったんかいな」 「豆六、そいつがいけねえ。テキもさるもの、こいつはよくよく油断がならねえぜ」  と、辰やお粂から委細の話をきいて、豆六がもういちど、もちをのどにひっかけそうになったいきさつは、くどくなるから省略するとして、どちらにしても豆六は目をシロクロさせながら、 「ほんなら、あの土手のうえにいたくし巻きの女がなあ。しかも、そいつ、あねさんを知ってるらしいちゅうねんやな」  と、豆六はゆうゆうと腰をすえて、つぎからつぎへと、もちを腹のなかへ詰めこんでいる。 「豆六、それで、そっちのほうはどうなんだ。なんだかけったいな雲行きになってきよったといっていたが……」 「さあ、そのことだすがな」  豆六もやっと腹がくちくなってきたとみえ、この男、腹がくちくなると、舌のすべりもよくなるほうで、 「あねさんも話はきいてはりまっしゃろけんど、さっき兄いに当て身をくらわそうとしたすごみな男な、あいつをつけていったところが、いったいだれの家へはいっていったと思やはります?」 「だれの家へはいっていったんだえ」 「そやさかい、当てておみやす」 「ええッ、じれってえッ、だれの家へはいっていったんだよウ」 「こら、お釈迦《しゃか》はんでもわかりまへんやろ。ましてや、辰兄いごときヘボ頭にはな」  豆六、とんだところで、さっきの煮え湯の敵を討っている。 「豆さん、冗談いってる場合じゃないよ。いったい、だれの家へはいっていったんだえ」 「へえ、すみまへん。あねさん、それが驚くなかれや、海坊主のうちやおまへんか」 「げっ、豆六、海坊主って鳥越のゲジゲジのことか」 「さよさよ。いかにお江戸がひろうても、海坊主みたいなけったいな化け物、二匹とはすんどらしまへん。鳥越の茂平次ちゅうおびんずるさんが、あばたを患うたようなやつの家だす」 「あらまあ!」  お粂をはじめ辰もお源も、これには思わず息をのんで、しばしことばもなかりけり。 「豆六、そ、それじゃあの野郎、海坊主のしりあいか」 「さよさよ。これには、わてもびっくりしてしもたが、近所で聞いて二度びっくりや。あら、上方からくだってきた御用聞きで、御朱印の吉五郎ちゅうやつやそうな」 「上方の御用聞き?」  三人はおもわず目と目を見交わした。 「そうやてえ。もっとも、うまれは江戸のもんで、海坊主とはそのむかし、兄弟分の杯をしたこともあるとか。それが上方へいて、ええ顔になってるちゅう話だすが、それがこんど御用で江戸へくだってきたんで、海坊主のとこを宿にしてるちゅ話だす」 「豆六、それ、なにかの間違いじゃアねえのか」 「ところが、さにあらずや。わても、そないなあほなことがと思たもんやさかいに、あちこち、きいてまわったんやが、だれの口もおんなじや。海坊主め、そないなお偉いかたがじぶんを名指して頼ってきやはったもんやさかい、鼻たかだかと、近所中吹いてまわっているらしい」 「豆さん、しかし、その御用というのはなんだろう」  お粂は合いのふすまに目をやりながら、ふいと不安にまゆねをくもらせた。  もし、御朱印の吉五郎に追われているのが奥にねている善之助だとすると、あの若者は凶状持ちということになる。そういえば、あのおだやかならぬかぞえ歌。  豆六は辰よりカンがいいから、すぐにお粂の気持ちを察して、 「いや、ところが、海坊主もそこまではしらんらしい。ところで、御朱印の吉五郎ちゅうやつだすが、あれがまっとうな御用聞きなら、兄いにドスンと一発の、ふところゴソゴソのと、そないなけったいなまね、するはずがおまへんがな。あのかぞえ歌が気にくわんなら気にくわんで、御用やアとくるはずやおまへんか」 「そういえばそうだわねえ」 「そこで、わてがつらつら案ずるに……」 「ふむ、ふむ、てめえがつらつら案ずるに……?」 「海坊主のやつ、威張るあほうに泣くあほう、おなじあほうなら威張らな損々ちゅう人生観で、威張るばっかりが能みたいに思とるやつやが、根があんまり利口やない。ハッキリいうたら、あら、あほだす。そやさかいに、御朱印の吉五郎ちゅうやつに、あんじょう口車にのせられとんのとちがいまっか。江戸で悪事をはたらくのんに、御用聞きのうちに宿借りしとったら、それこそ安全地帯だっさかいにな」 「豆さん、めったなことを……」 「そやけど、あねさん、兄いにズドンの、ふところをゴソゴソの、あら、まっとうな人間のするこっちゃおまへん。なんぞ前科《まえ》のあるやつやないか、いつごろ江戸を売りよったんかと、こっちへくる途中、ちょっと馬道へよってみました」 「馬道というと、からすの平太のところか」  からすの平太というのは、昔、さんざんお上の手をやかせた男だが、そのご心をいれかえて、いまでは諜者《ちょうじゃ》のような役をやっている。  そこへいけば、江戸の暗黒街のことなら、たなごころをさすがごとしという調法な男だが、しかも、佐七には心の底から心服している。 「平太はなんといっていた。なにか心当たりがあるふうか」 「ところが、あいつも利口なやつやさかい、へたな口はききまへん。そやけど、わてから年かっこうや人相骨柄きいてるうちに、なんや思い当たるところがあったらしゅう、そういうやつが海坊主のやつのとこに世話になってるちゅうたら、平太のやつ、プッと吹きだし、はてはゲラゲラ笑い出しよった」 「あらまあ、豆さん、それで返事は……?」 「いや、なお念のために調べてみて、詳しいことはあとで調べてよこす。一日二日待ってほしいちゅうてました。そやけど、あねさん」 「あいよ」 「こう話がこんがらがってきたら、とてもわてらの手には及びまへん。こら一刻もはやく、お玉が池へかえって、親分におしらせしよやおまへんか」 「それじゃ、ちょっと待ってください。あのご病人さんのことで、ちょっとひとっ走りいってまいりますから」 「ああ、そう、だけど、お源さん、気をつけておくれ。だれか見張ってるかもしれないよ」 「はい、そこに抜かりはございません」  お源は四半刻《しはんとき》(半時間)もたたぬまにかえってきたが、みると、屈強の若者がふたりついている。 「ごあいさつはあとにして、そのご病人さんを一刻もはやく……辰、豆さんも手伝っておくれ」  雨戸を一枚はずすと、布団ごと善之助をそのうえにうつしたが、まだうつつなのけが人は、こんなときには世話はやけない。 「あねさんもちょっと顔をかしてください。決してあとくされのあるような親分さんじゃございませんから」 「あいよ、いいとも。こんなご無理をお願いするんだからね」  そのへんの路地は、まるで八幡《やわた》のやぶ知らず、抜け裏から抜け裏へとつづいていて、とんと迷路のようである。  その迷路のような裏路地づたいに、戸板をかついで歩いても、いまの時間にして五、六分という距離に、お源のいう顔役さんの住まいがあった。  お源のいう顔役さんとは、上総屋虎五郎《かずさやとらごろう》という香具師《てきや》の親分、ふつうカズ寅でとおっていて、お粂も名まえはしっていた。  香具師といっても、これくらいになると人間ができている。でっぷりと肥えた五十男が、柔和な目じりに笑みをたたえて、 「お源さんはうちの身内もおなじこと。そのお源さんがいろいろお世話になっているお玉が池の親分さんのお頼みとあれゃ、これゃア、越後からでももちつきにくるべきところ。こっちのほうはどうぞご心配なく」  と、ぶあつい胸をたたいてひきうける、ことばのはしばしも頼もしかったが、ここで問題になったのはお源の身柄である。  お源の家はもう目をつけられている。こんやにでも、忍んでくるかもしれない年増かその一味のものが、善之助をほかへかわされたとしった腹立ちまぎれに、お源になにかアダをしやアしないものかと、これをいいだしたのは豆六だったが、じつは辰もさっきから、そのことが胸につかえていたのである。 「ああ、豆六さん、それはよいところへ気がつきなすった。それじゃ、こうしましょう。ご病人さんの介抱かたがた、お源さんもこっちへきて、泊まってもらうことにいたしましょう。なアに、お源さんのうちにゃ、うちの若いものをふたりほど留守番にやりますから、なにもご心配にゃおよびません」  と、これでなにもかも段取りがついたが、ただひとつ片づかないのは、お粂の胸のうちである。 「ちきしょう! あの女……どこで会った女かしら」  それがお粂の胸のうちにモヤモヤとじれったくくすぶりつづけているのである。  思い出せぬ女   ——お粂はじれにじれきって  それやこれやで時刻がうつって、お粂が辰や豆六といっしょにお玉が池へかえってきたのは、夜もだいぶん更けて五つ半(九時)ごろ。  むろん、佐七はとっくのむかしにかえっていて、長火ばちのまえで、やけに雁首《がんくび》をたたいていた。 「あら、おまえさん、ごめんなさい。してして、晩ご飯は……」 「なんだ、おめえら、いっしょだったのか」  佐七もちょっとおどろいたように、 「なに、晩飯はそとで食ってきたからいいが、その顔色じゃなにかあったな。お粂、おまえはお源さんとこへいくといって出ていったそうだが、この連中と緑町で会ったのかえ」 「そうなんだよ。それがさあ、おまえさん、たいへんなんだよ。ええいッ、もうじれったいねえ」 「お粂、おまえはなにをそのようにじれているのさ。それより、辰、豆六、おまえたちなにかいわねえか。なにをそのようにゲンナリしてるんだ」 「そやかて……そやかて……親分、あんたはん、ほんまにもう、晩ご飯すましやはったんかいな」 「おお、だいぶんまえにな。あっ、そうか、お粂、この連中、晩飯はまだか」 「それなんだよ。おまえさん、つぎからつぎへとまが悪くってさ」 「あっはっは、そうか、そうか。辰、それでそんなにゲンナリしてるのか」 「だって、親分、あっしは伯母《おば》んところで、もちをのどにひっかけて、あやうくお陀物《だぶつ》……」 「あれ、えッ! 兄い、ほんならあんさんも、もちをのどにひっかけはったんかいな」 「そうなのよウ、豆さん、そのあとが煮えくらのおぶうで、あっちっ、ちっ……どっちもどっちなのさあ」 「ほんなら、さっきわてに当てがやはった煮えくらのおぶうは、江戸のカタキを長崎でと……?」 「なんとでもいえ、おらあもう、腹がへって口もきけねえ」 「そういえば、わてもチョボチョボや」 「あっはっは、お粂、なにがあったのかしらねえが、ともかく一本つけてやんねえ。かまぼこがあったろう。なに、おせちがまだ残っている? なんでもいいから出してやれ。なにか腹へ詰めこまなけれゃ、こいつら口もきけねえらしい」  いやはや、佐七も手のかかる子分をもったもんで。  お粂がてばやくつけてやったおちょうしに、うに、このわた、数の子、かまぼこ、それにおせち料理ののこりものを山のようにもって出されて、いや、もう、食うわ、飲むわ、いつものこととはいいながら、お粂佐七のご両人、あきれかえって、しばしことばもなかり候。  佐七もほどよく杯のあいてをしてやりながら、 「どうだ、辰、豆六、これでいくらか気も落ちついたろう。あとで茶づけでくうことにして、ここらで話してみねえか。きょう出先で、どんなことがあったんだ」 「へえ、親分、それなんですがね」  辰も豆六も、どうやら腹がくちくなってきたらしく、ここではじめてきょうのいきさつを語りはじめたというのだから、いやはや、手間のかかるふたりではある。  佐七はしかし、半畳もいれず、まじめに話をきいていたが、 「なるほど。それで、そのお美乃という娘は、伏見焼きの人形作りの娘だというんだな」  と、ギロリと目を光らせたのは、なにか思い当たるところがあるらしい。 「伏見焼きの人形作り、幸兵衛というものの娘か。ところで、住まいは……?」 「薬研堀ちゅうてましたなあ。詳しいことは聞くひまがおまへんなんだんやけど……」 「いや、結構結構、薬研堀で、伏見焼きの人形作りの幸兵衛と、そこまでわかれゃたくさんだ。それから……?」 「へえ、それからがたいへんなんです」  辰の話が、長者町の辻《つじ》で藍微塵《あいみじん》の男にドスンと一発、あやうく脾腹《ひばら》にくらうところだったというくだりになると、佐七は目をまるくして驚いたが、さらにその男が鳥越の茂平次のうちへはいっていったという豆六の報告に、佐七はのけぞるばかりにおどろいた。 「豆六、そ、それゃアなにかの間違いじゃねえか。つけてる途中で、おめえあいてを取りちがえたんじゃねえだろうな」 「あほなこといわんといておくれやす。七つや八つの子どもやあるまいし、これでもお玉が池の豆六はんちゅうたら、ちっとはひとにしられた兄さんだっせ。あんまりバカにしやはると、親分やかて承知せえしまへん」  豆六め、きょうは虫のいどころでも悪いのか、鼻息当たるべからずだから、佐七もにが笑いしながら、 「あっはっは、まあ、勘弁しろ。してして、そいつは何者だえ。おめえもすこしはひとに知られた兄さんだ。あ、さよかで引き揚げてきたんじゃあるめえな」 「そこに抜かりがおまっかいな。近所でちゃんときいてきましたけんど、それが、親分、もうひとつ、まゆつばもんやと思てまっけんどな」 「まゆつばもんというと……?」 「それが、親分、豆六の話によると、そいつ、上方の御用聞きってえふれこみだそうです。それで、海坊主のやつ、江戸に御用聞きかずあるなかに、上方で名うての御用聞きが名ざしで頼ってくるなアおれくれえのもんだろうと、近所のものに吹くわ、吹くわ……」 「辰。てめえは黙ってろ。豆六、してして、その上方の御用聞きというのは、名はなんていうんだえ」  そういう佐七のただならぬ顔色に、辰と豆六、さては女房のお粂まで、はっとその顔を見なおした。 「へえへえ、なんでも御朱印の吉五郎とか名乗ってるちゅう話だったけど……」 「おまえさん、なにかその男に心当たりが……?」 「お粂、おまえももう少しひかえていろ。いまに話すが、豆六、それでそいつに違いねえというんだな。辰に一発くらわしそこなった男というのは……?」 「へえへえ、違いおまへん。藍微塵《あいみじん》の素あわせに、さすがにそろばん絞りのほおかぶりはとってましたが、そのまんまの姿で、海坊主のうちへはいっていきよりましてん」 「しかも、辰、そいつはおまえのふところを探りにかかったというんだな」 「へえ、それが臭いじゃありませんか。親分、心当たりがあるならいってください。いったい、あいつは……?」 「ふむ、いまいって聞かせるが、そいつが鳥越の兄いのうちになあ……」  佐七は苦渋にみちた顔色で、ほっとふかいため息をついたが、ふと顔をあげると、 「それじゃ、おれの話を聞かせるまえに、お粂、おめえの話というのを聞こうじゃねえか。おめえはなにをそんなにじれてるんだ」 「ああ、そのことだよ。おまえさん、きいておくれな。こういう話なのさ」  と、お粂がみすみす目のまえで、とんびに油揚げをさらわれるように、お美乃をつれていかれた話を語ってきかせると、佐七はあらためて目をまるくして、 「なんだ、それじゃお美乃はかどわかされたというのかえ」 「親分、すみません、あっしがドジなもんですから。そのくし巻きの女なら、あっしも柳原堤にいたのを見てるんです。しかし、まさかこっちの話を盗み聞きしているとは……」 「いや、親分、こら、兄いだけのおちどやおまへん。わても、そのくし巻きの女なら、この目でちゃんと見てまんねん。こうなったら、お玉が池の豆六兄いやなんて、あんまり大きな口はきけまんなあ」  豆六め、いまさらのごとくしょんぼりしているが、これだからこのふたり、いかにへまをやらかしても、佐七には憎めないのである。 「まあいい、まあいい、人間だれしも神様じゃねえからな。だけど、お粂、おめえのくやしがる気持ちも、わからねえでもねえが、なにもそんなにじれるこたあねえじゃねえか」 「いえさ、それがおまえさん、ただそれだけじゃないんだよウ」  と、お粂がやけにかんざしで頭をガリガリかきながら、たしかにどこかで会ったような気がするが、それが思い出せないのがくやしいと、またあらためてじれはじめると、佐七はそばから慰めるように、 「お粂、人間というものは、あまり思い出そう、思い出そうとあせると、かえって思い出せねえもんだ。おまえ、そのことはきれいさっぱり忘れてしまえ。すると、ひょっこり思い出すことがあるもんだ。ところで、辰、豆六、お美乃をつれていったくし巻きの女というのは、藍微塵《あいみじん》のそろばん絞りと同腹だろうか」 「としか思えませんがねえ」  佐七はふっとまゆねをくもらせて、 「とすると、あのけが人さん、善之助さんとかいったな、その善之助さんやお源さんが危ねえんじゃねえかな」 「親分、ほんなら安心しておくれやす。あねさんの思いつきで、これこれこうだす」  と、豆六の話をきいて、佐七もやっと愁眉《しゅうび》をひらいて、 「お粂、それはよく気がついた。カズ寅《とら》なら、おれもよく知っている。あそこへ預けとけば大丈夫だ。それじゃ、そっちのほうはそれくらいにして、辰、豆六、こんどはおれの話を聞け」  と、そこで佐七の話すところを聞くと、これがまことに妙なので。  伏見奉行通達   ——お粂が思い出した女というのは 「きょう八丁堀のだんなからお招きがあったことは、おまえたちもお粂からきいているだろうが、それがまことにやっかいな話になってきた」  八丁堀のだんなというのは、いうまでもなく、佐七がかねてからごひいきにあずかっている与力|神崎甚五郎《かんざきじんごろう》。 「親分、やっかいなこととおっしゃいますと……?」 「なにか、親分のおちどにでもなることだっか」  佐七の面上をかすめる憂色《ゆうしょく》をみて、辰と豆六、お粂もドキリと目をすえる。 「いや、まあ、そうさきくぐりをしてもいけねえが……」  と、佐七はにが笑いをしながら、 「どうもおれには腑《ふ》におちねえんだが、辰、豆六、そうだ、お粂、おめえ女の目でみて、あのかぞえ歌の若者な、善之助とかいうそうだが、あの善之助をどう思う」 「どう思うとおっしゃいますと……?」 「あいつが上方きっての大どろぼう、強盗の張本人といやアほんとにするか」 「お、お、大どろぼう……?」  辰も豆六も目をまるくして、 「ご、ご、ご冗談でしょう。いかにひとは見かけによらぬものとはいえ……」 「ほんに、これは辰つぁんのいうとおり、見かけによらぬも、よらなすぎるわね」 「親分、そら、いったい、どないなことだすねん」 「ふむ、おいらもきつねにつままれたような気持ちなんだが、人相骨柄、年かっこうといい、それに、右の目じりのあのホクロ……そうそう、名前も善之助というそうだ」 「親分、それじゃあいつです。あいつにちがいございません。しかし、親分……」 「あいつが上方きっての大どろぼうの張本人とは、そら、また、いったいどないことだす」 「おまえさん、神崎のだんなの御用というのは、いったいどういうんです」  心配そうな辰と豆六のそばから、お粂も気づかわしそうに口を出す。 「それはこうよ。三人とも、よく聞きねえ」  ちかごろ、京都の伏見奉行から、江戸の町奉行に、つぎのような依頼があった。  ここ数年来、伏見を中心として、京大坂をあらしまわっていた三人組の強盗が、去年の暮れごろ、江戸へ潜入した形跡があるから、見つけしだいひっ捕らえて、伏見へ送ってもらいたいというのである。  いったい、伏見は幕府直轄の地で、奉行が支配し、いっさいの権限を握っている。  江戸時代もごく初期のころには、ここに伏見城があり、幕府も城代をおき、のちにお留守居役をもうけ、べつに奉行をおいて市政にあたらせていたが、伏見城とりこわしののちには、奉行がすべての権限を握ることになった。  ところが、なにしろここは要衝《ようしょう》の地である。  ちかくに京都をひかえているというよりは、京都にはいるのど首にあたる個所である。  西国の大名たちも、参覲《さんきん》交代の途次、かならず通過するところである。だから、その警戒もげんじゅうをきわめ、どんな事情があっても、三日以上はぜったいに滞在をゆるさぬというおきてがあった。うっかり、京都へちかよられてはたいへんだからである。  そういう要衝の地をあずかる地位だから、その権力もたいへんで、京都町奉行とともに、近江、丹波両国の政令を発し、訴訟を裁判するかと思えば、大坂城代と協議し、西国大名の動静をさぐるいっぽう、伏見船の管轄にもあたった。  伏見船というのは、伏見大坂のあいだ、およびその付近を往来する船だが、三十石積みから百五十石積みにいたる船が、宝暦十二年の調査では二百隻をこえていたという。  それらの船はすべて伏見奉行の支配下にあり、そこから取り立てる運上銀だけでもばくだいな額にのぼり、したがって、伏見奉行の権威というものはたいへんなもので、少し小才のきく人物がその職につくと、京都町奉行はいうもおろか、大坂城代でさえも頭があがらなかったという。  いまの伏見奉行は川路|大和守直久《やまとのかみなおひさ》といって、寄合旗本から立身出世した、目から鼻へぬけるような人物だという評判。 「で、親分、その三人組というのは……?」 「伴左衛門《ばんざえもん》、伝右衛門《でんえもん》、善之助というんだそうだが、その善之助というのが、としかっこうから人相から、かぞえ歌のあの一件もんとそっくりなんだ」 「ちょっと、おまえさん……」  お粂の声はふるえている。  ひょっとすると、じぶんたちはとんでもない食わせものをかくまってきたのではあるまいか。 「お粂、まあ、聞きねえ。おれはまえからあの若者を、上方もんとにらんでいたんだが、おまえたちの話を聞くと、どうやらまちがいはなさそうだ」 「だって、親分……」 「そないなむちゃな……あのひとのよさそうな若もんが、強盗の張本人やなんて、そないなあほなことがおまっかいな」 「まあ、いいからもうすこし黙っておれの話を聞け」 「へえへえ、まだなにかあるんですか」 「そうよ。いちばんだいじな話がのこっているんだ。辰、豆六、お粂もおどろくな。その三人組を追っかけて、伏見のお奉行さまのよこしたむこうの御用聞きが、いま鳥越の兄いのところに逗留《とうりゅう》しているそうな」 「げえッ!」  と、のけぞる辰と豆六。お粂の顔色もまっさおになる。  四人はしばし黙りこくって、探るようにたがいの顔色を見ていたが、やがて、まずがなりだしたのがきんちゃくの辰。 「べらぼうめ、そんなバカな話があってたまるもんですか。いかにひとは見かけによらねえからって、あの若造が強盗の、それも張本人だなんて、へそがきいたら茶をわかしまさあ」 「そやそや、それに、きょうの吉五郎のやりくちがおかしいやおまへんか」 「そうだ、そうだ、御用聞きなら御用聞きらしく、あっしに不審のかどでもあるなら、なぜ正面きって取り調べようとしねえんです」 「そやそや、兄いに当て身をくらわして、こそこそふところをさぐるなんて、こっちのほうがよっぽど怪しい。親分、この話にはきっと裏がおまっせ」 「まさか、伏見のお奉行様ともあろうかたが、でたらめもいってよこされめえが……ときに、辰、お美乃のおやじは、伏見焼きの人形作りだというんだな」 「あっ!」  と、辰と豆六はまた口のなかで絶叫した。お粂の顔色はいよいよ悪くなる。ここにも伏見とつながりがある。  伏見人形というのは、伏見地方につたわる独特の人形で、元和ごろ鵤幸右衛門《いかるがこうえもん》というものが編みだした秘法だという。  こうして、なにもかも平仄《ひょうそく》があう以上、やはり伏見からの通達が真実で、あの善之助という若者は、強盗の張本人ということになるのだろうか。  もし、そうきまったときの佐七の面目問題も面目問題だが、あの海坊主の茂平次めが得意満面、サツマ芋のような鼻うごめかして、吹いて、吹いて、吹きまくるだろうと思うと、それを考えただけでも辰と豆六、業が煮えてたまらない。 「ときに、そのおやじの幸兵衛とかいうのは、薬研堀《やげんぼり》に住んでるとかいったな」 「へえ、さよさよ。かえりによってみよ思たんでっけど、なにせ、腹がペコペコやったもんだっさかい……」 「よし、そこまでわかってれゃ上乗だ。こんやはもうおそいから、あすの朝にでもいってみようよ」  佐七の声もなんとなく沈んでいたが、まさにそのときである。  いままでえりにあごをうずめて、しきりになにか思い患っていたお粂が、なに思ったのか、いきなり大声をあげて叫んだのは。 「思い出したア!」 「な、な、なんだ、なんだ、お粂。やけにまた大きな声を出すじゃねえか」 「あねさん、なにを思い出したんです。むかしの情人《いろ》のことでも思い出したんですかい」 「それとも、もっとごちそうがあったんを、わてらにかくしていやはったことを、思い出しやはったんですか」  豆六はあくまでも食い意地がはっている。 「バカなことをおいいでないよ。ほら、ほら、おまえさん、お美乃ちゃんという娘をつれていったあのくし巻きの女のことを思い出したんですよウ」  お粂はすごく興奮している。 「ね、あねさん、そ、そ、そして、そいつはどういう女です」 「ああ、くやしい。どうしてそれを、いままで思い出さなかったんだろう。あいつのために、さんざん恥ずかしい目にあわされながら……」 「お粂、そう気を高ぶらせずに、いってみねえ。いってえ、そいつはどういう女だ」 「ほら、ほら、あたしが幽霊の身代わりにされかけた、あの『化け物屋敷』の一件の女ですよウ」 「ほんなら、いつかあねさんが親分と、親分に生き写しの人形を見ちがえて、大やきにやきやはった、あの亀八《かめはち》の一件だっかいな」 「豆さん、おまえさん、いちいちあたしに絡む気かえ」 「豆六。てめえは黙ってろ。お粂、あの一件の女なら、たしかお種とかいったなあ」 「そうです、そうです。なんでも、大伝馬町でも名代の呉服屋、辰巳屋《たつみや》のだんなというのをだまくらかして、まんまとその後妻になりすまし、じゃまになる先妻の娘を追い出そうとしたところを、おまえさんに見現されて、風をくらって逃げたのはよいが(『銀の簪《かんざし》』参照)、それを根にもって、このあたしを幽霊の身代わりにして、生き恥をさらさせた女ですよウ」  その女なら佐七とみょうな縁になっていて、いちどならず二度までも、佐七はそいつの鼻をあかせながら、いままで顔をあわせたことがなかった。 「お粂、それにまちげえねえだろうな」 「おまえさん、あたしもお玉が池の佐七の女房、うろんなことは申しませんよ」 「親分、あねさんがああおっしゃるからにゃ、まちがいはございますまい。『銀の簪』の一件のときにゃ、あっしも豆六も留守でしたが、『化け物屋敷』の一件にゃ、あっしどもも片棒かついでおります。あのときあねさんはお種という女に、ずいぶんくやしい目に会わされておいでなさるんですからね」 「そやそや、そのお種ちゅう女、あのあと、上方へでもずらかっていたにちがいおまへん。そないな女とぐるやとすると、御朱印の吉五郎ちゅうのんも、ただのねずみやおまへんで」 「そうこなくっちゃ話が面白くねえ。あの海坊主というやつ、威張ることはひと一倍だが、根があんまり利口じゃアねえ。まんまと御朱印とやら吉五郎とやらいう男に、だまくらかされているにちげえねえ。ここでひとあわ……」  と、辰と豆六は勇み立ったが、しかし、そうだとすると、伏見奉行からの通達は、どう解釈すべきだろうか。それに、お種という女と、御朱印の吉五郎という男がぐるだという証拠は、いまのところどこにもない。  佐七はまだ、憂色が吹っきれない面持ちで、 「まあ、いいや、あしたはさっそく、薬研堀へいってみようよ。お美乃のおやじの幸兵衛というのに会ってみれば、すこしはようすがハッキリするだろう」  だが、あとから思えば、これがいけなかった。善は急げということばがある。思い立ったが吉日ともいう。  佐七が薬研堀いきをひと晩のばしたばっかりに、取りかえしのつかぬことが起こってしまったのである。  忍び込んだくせ者   ——横に払った長わき差しに血の曇り 「親分、起きてください。た、た、たいへんです。朝っぱらからすみませんが、どうぞここを開けてください」  その翌朝の七つ半(五時)ごろ、けたたましく格子をたたく音に、ふと目をさましたお粂佐七のご両人。場合が場合だけに、すわやと寝床のうえに起きなおると、果たせるかな。 「親分、親分、起きてください。こちら緑町の上総屋の身内のものです。ちょっとここを開けてください」  という表の声に、 「お粂、表をあけてあげろ」 「あいよ」  早飯《はやめし》早ぐそ芸のうちというが、お粂もさすがに御用聞きの女房、格子の音をきいたとたん、寝床のなかからすべり出て、長襦袢《ながじゅばん》のうえから着物をはおり、細帯ながらキリリシャンとしめていた。 「少々お待ちください。いますぐ開けますから」  冬のことだから、朝の七つ半といえば外は真っ暗、その暗がりのなかから格子のなかへころげるようにとびこんできたのは、二十《はたち》ばかりのまだ生若い男。よほどいそいだとみえて、ちょうちんの灯も消えて、吐く息もしろく凍ってあらしのよう。髷《まげ》もかたむき、鬢《びん》の毛がすだれのようだ。  上がりかまちに取りついて、ぜいぜいいっているところへ、行灯《あんどん》をさげた佐七が奥から出てくるのと、二階から辰と豆六がドタドタとおりてくるのと、三人ほとんど同時だった。 「辰、手をかしてあげろ、豆六、奥からつめてえおぶうでももってきてあげろ。お粂、支度だ」 「あいよ」  こうして奥へ支度ができて、若者がやっと口がきけるようになるまでにはそうとうかかった。お粂ははや、かまどの下をたいている。  若者はカズ寅の身内のもので、庄七《しょうしち》というものであると名乗ったあとで、 「親分、こちらのあねさんのご用心が当たりました。ゆうべお源さんのうちへ、くせ者が押し入ったんです」  だいたい察していたとはいうものの、それを聞くと佐七をはじめ辰と豆六、さすがにハッと顔色がかわった。 「庄七どん、してして、けが人は……?」 「兄貴分の鶴蔵《つるぞう》というのがバッサリ切られて……いえ、いえ、かなり深手は深手ですが、命には別条ないそうですから、そこんところは御安心くださるようにとの、上総屋寅五郎からのごあいさつでございました」 「それはまあ、不幸中の幸いでしたが、してして、くせ者というのは……?」 「親分、面目しだいもございません。そいつを取り逃がしてしまったもんですから、うちの親分からも大目玉で……それというのも、ばんじあっしがいけないんです」  まさか今夜そんなことがあろうとはと、たかかをくくった庄七は、お粂の心尽くしの一升徳利を、兄貴分の鶴蔵にすすめた。  鶴蔵はあまりいけないほうなので、いい加減で切りあげたが、庄七は酒というと目のないほうであった。  こうして一升徳利をすっかりからにして、ふたりが床にはいったのは、もうかれこれ九つ(十二時)ごろのこと、兄貴分の鶴蔵は、善之助のねていた奥のひと間へ、庄七は表の間へ床をのべた。  ところが、真夜中も過ぎた八つ半(三時)ごろ、奥のひと間からけたたましい怒号と悲鳴、床を踏みぬくような物音に、さすが泥酔《でいすい》していた庄七も夢破られた。  あとでわかったところによると、くせ者は台所の引き窓から忍び込んでいるのだから、奥のひと間へはいるまえ、庄七のまくらもとをとおったことになる。これでは庄七が平身低頭、米つきバッタみたいに頭をさげて恐縮するのもむりはない。 「それゃまあ、人間だれしもしくじりはあるもの。それより、鶴蔵さんのようすはどうだ」 「いや、そこはさすがに兄貴です。あいのふすまがひらいたとたん目がさめたそうです。おやと思って起きなおろうとするところを、くせ者め、ふとんのうえから馬乗りになり、ダンビラさか手に、のどをめがけてグサリとひと突き……」 「それで鶴蔵さん、やられなすったのか」  辰はおもわすひざをのりだす。 「いや、それがやられてちゃ、おたまりこぼしはありませんや。ひょいと首をねじったから、ねらいがはずれて左の肩先をグサリとえぐられ、おかげで深手は深手ですが、命には別条はないそうです」 「して、して、くせ者は……?」 「さあ、それですがね。兄貴も目がさめたとたん、長わき差しをひきよせていたんですね。そいつを下から横にはらったから、くせ者もどこかに、けがをしているはずだというんです。あとから思えば、あっしが目をさましたのは、そのとき放ったくせ者の悲鳴のせいらしいんですね」 「と、いうことは、くせ者は取り逃がしたということですね」 「親分、面目しだいもございません。くせ者は奥からとび出してくる、あっしゃ奥へとびこもうとする、出会いがしらにいやというほど脾腹《ひばら》をやられて、しばらくは息もとまってしまいましたんで」 「あいつだ、あいつだ、それじゃ、やっぱり海坊主の……」 「辰、てめえは黙ってろ。庄七どん、それからどうなすった」 「どうもこうもありませんや。やっと息がつけるようになって、奥の間へとびこもうとすると、兄貴の声で、こっちはいいから、金だらいをたたいて、長屋のものをたたき起こせって……」 「おお、それはよいところへ気がつきなすった。それで、長屋のものが起きてきなすったんだね」 「起きてきたことは起きてきたものの、あとの祭りで……野郎、天水おけから屋根へとびあがり、屋根づたいに逃げやぁがったらしいんで」 「それで、庄どんはあいての姿を見なすったか」 「ところが、親分、そんなひまなんてありませんや。なにしろ、暗がりの出合いがしらに、ドスンと一発。いやはや、われながらだらしのねえ話で、うちの親分からも大目玉をくらいました」 「しかし、あいては男だったんだろうね」 「それゃ……女にゃあんな手荒なまねはできませんや」 「いや、そら、そういうたもんやおまへんで。いまどき女やかて、すごいのんがおりまっさかいにな」 「豆六兄い、それゃねえんです。あっしもからだとからだがもつれてますから、あいてが男か女かぐれえはわかります。それにねえ、親分、ここに耳寄りな話がひとつあります」 「耳寄りな話というと……」 「鶴蔵兄いの横にはらった長わき差しをしらべてみると、うっすらと血の曇りがあるんです」 「ふむ、ふむ、なるほど。それで……?」 「だから、野郎、向こうずねでもかっさらわれているんじゃねえかと……そういえば、あっしが夢うつつにきいた足音も、びっこをひいてたような気がするんです」 「そいつは鶴蔵さん大手柄でしたね」 「へえ、それですから、夜が明けたら、血の跡を調べてみよう。屋根づてえに血の跡がつづいてるかもしれねえといってるんですが、そのまえに、なにをおいてもお玉が池の親分にお知らせしてこいと、うちの親分のおことばですから……」 「いや、それは大きにご苦労さんでした。お粂、さっそく出掛けるが、飯の支度は……?」 「あい、やっとまにあいましたよ。庄七さんも、熱いおみおつけでも吸っていってくださいな」 「いや、庄七さんだけじゃアねえ、お粂、おめえもはやいとこ食ってしまいな」 「あたしが……? おまえさん、それゃまたどうして……?」 「庄七どんを送って緑町へいくんだ。そして、上総屋の親分に、佐七もいずれあとからお見舞いかたがた、ごあいさつにまいりますからと、ひと足さきに顔を出しておいてくれ」 「親分、親分、それで親分はどうなさるおつもりなんです」 「兄い、そないなこと聞かんかて、わかってるやおまへんか。テキはもう破れかぶれの手負い獅子《じし》や。しかも、その手負い獅子には、くし巻きのすごい相棒さんがついてござる。緑町へ手がまわったからにゃ、気にかかるのは薬研堀……ちゅうわけやおまへんか」 「あら、まあ、おまえさん」 「お、お、親分」 「豆六、てめええろう派手に舌がまわるじゃねえか。そんなことをしゃべってるまにゃ、はやえとこ茶漬《ちゃづ》ってしまえ」  佐七は一喝《いっかつ》くらわせたが、それだけかれも胸騒ぎをおぼえているという証拠だろう。  出会いがしらの女   ——女は片手を袖でくるんで痛さをこらえ  ひとくちに薬研堀といってもそうとう広い。しかし、伏見焼きの人形作りといえば、そうざらにある稼業《かぎょう》ではない。  それを目当てにたずねていけば、案外かんたんにわかるのではないかという佐七の胸算用は図に当たった。  さいわい、そのころはもう夜もしらじら明けで、どの町でも朝のはやい豆腐屋は起きていて、きょうの仕込みによねんがなかった。それからそれへときいてまわって、佐七の一行三人が、やっと尋ねあてたのは、わりとこぎれいな格子づくりの住まい。表に、  伏見焼き人形作り 三代目幸兵衛  という表札があがっている。  辰と豆六がかわるがわるとうたが、家のなかは、シーンと静まりかえって返事もない。それでも未練らしく声をかけていると、となりの格子がひらいて、若い女房が顔を出した。 「あの……幸兵衛さんならおるすですよ」 「幸兵衛さんはるす……? おまえさんにゃどうしてそれがわかるんです」  佐七の人相風体、さてはまたそのけんまくに、若い女房はハッとしたらしく、 「あの……それじゃこのうちに、なにか変わったことでもあったんでしょうか」 「それゃ、こちらから聞きてえところだが、おかみさん、ちかごろこの家に、なにか変わったことはなかったかえ」 「はあ、そうおっしゃれば……」  と、若い女房は青いまゆをくもらせたが、 「あの親分さん、立ち話もなんですから、ちょっとうちへお寄りになりませんか。そういえば、ゆうべちょっと妙なことがございましたので……」 「おお、そうか。それじゃ、おじゃまをさせてもらおうか。辰、豆六、おまえたちはこの家を見張ってろ」 「あら、まあ、それじゃこちらはお玉が池の親分さん、さあさあ、どうぞ……」  と、招じ入れられた格子のなかはわりに小ぎれいで、女房がうえへあがれというのを、佐七がにが笑いしながら断ると、女房は座布団と手あぶりを、上がりかまちへ持ち出した。  亭主《ていしゅ》は担ぎ呉服をしているが、大伝馬町のお店へ毎朝仕入れに出かけるので、朝がはやいのだといい、子供はまだないとの問わず語り、どうりで、家のなかがきれいに片付いていると思ったが、佐七にとってもっけの幸いは、女のつねとして話し好き。ことに好奇心にもえているから、佐七の質問にはなんでもこたえた。  その女房の話によると、幸兵衛は娘のお美乃とふたりぐらし。そのお美乃が、きのう昼過ぎ出かけたきりでかえってこないと、幸兵衛はゆうべひどく心配していたという。  佐七がこころみに、善之助のことをきいてみると、それなら、伏見の人形作りであると、女房は言下にこたえた。  そのほか、彼女はいろんなことをしっていた。  伏見の人形作り善之助は、毎年江戸へでてくると、幸兵衛のところを定宿としていくのである。幸兵衛とは遠縁にあたっているそうだが、色の白い、小意気な男で、気性もおとなしいほうだから、お美乃も憎からずおもっていたらしい。  善之助のほうでも気があるらしく、いつもかれとしては過分のみやげをもってきた。幸兵衛もうすうす、ふたりの気持ちを察していたが、似合いの夫婦というべきなので、見て見ぬふりをしているのである。  ところが、去年の暮れのこと、その善之助が、とつぜん、なんのまえぶれもなしに、ころげこんできた。  いつも出府は春が明けてからときまっているのに、師走も押し迫っての上京がおかしかったし、こんどは商用ではないといって一歩も家を出ず、顔色もすぐれず、何物かを恐れるらしく、ひどくビクビクしているので、幸兵衛親子も胸をいためているらしかった。  それとなしに理由をきいても、善之助は語らなかったらしい。そうしているうちに、師走の二十九日の晩、善之助はどこかへでかけたきり、かえってこなくなったのである。 「お美乃さんは心配して、占い者に見てもらったり、神信心をしたりしていましたが、それがまた、きのうの昼過ぎでかけたきり、夜になってもかえってこないので、幸兵衛さんも気が狂ったようになって……」 「娘を探しにでかけたんですね」 「そうだと思います。でも、でかけるときには、いつもるすを頼んでいくのに、ゆうべはなんのあいさつもなかったので、ふしぎに思っていたんです。もっとも、ゆうべはあたしも家を明けていましたけれど……」 「それで、おかみさん、ゆうべ妙なことがあったというのは……?」 「はい、それはこうでございます」  ゆうべ亭主は、仲間の寄り合いがあるとやらで、夜遅くまでかえらない予定だった。そこで、おかみさんは、そのまにふろへいってこようと、でかけていった。  ところが、そのかえるさの五つ半(九時)ごろ、となりのまえへ差しかかったところ、出会いがしらにバッタリと、なかからとび出してきた女とぶつかったという。 「してして、おかみさん、そ、それゃどういう女だったえ」  佐七にせきこまれて、おかみはさっと不安そうな色になり、 「どういう女と申しましても、薄暗がりでございましたから、もうひとつハッキリしませんでしたが、髪をくし巻きにしたそうとうの年増のようでございました」 「髪をくし巻きにしたそうとうの年増……?」  佐七がドキリとひとみをすえるのを見て、女房はいよいよ不安らしく目をとがらせ、 「それに、いまから思えばもっとおかしいのは、出会いがしらにぶつかったとき、そのひとキャッと悲鳴をあげたんです。なんでも、左手のどこかをけがしたらしく、右のたもとでしっかとおさえておりました」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「はい、それで、あたしがどうしたのかと尋ねますと、幸兵衛さんの昔なじみのものだが、訪ねてきてみるとるすだった。しばらく待ってみようと、仕事場に座っていたのはよいが、あれこれと人形作りの道具をいじっているうちに、つい手をけがしてしまって、あたしもよっぽどバカだねえ……と、そう笑いながら、足早にいってしまったんです」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「いいえ、それっきりでした。あたしもずいぶんそそっかしい女もあればあるもんだと、それきり家へかえってきたんですが、それからまもなく、うちのひとがかえってきたので、忘れてしまったんです。もっとも……」 「もっとも……?」 「おふろへいくまえ、おとなりのまえを通りかかったら、幸兵衛さんが表に立っていて、お美乃が昼過ぎでかけたきり、かえってこないと、たいそう心配そうでしたから、それで探しにいったあとへあの女がきたんだろうと思ったんですが、いまから思えば……」 「いまから思えば……?」 「その女、口ではたいしたけがではないようにいってましたが、小走りにいくうしろ姿をみると、からだをこうねじるようにして、たいそう痛そうに見えたんです」  そこまで聞くとじゅうぶんだった。ゆうべ隣家で、なにかあったにちがいない。 「おかみさん、おまえさんを使っちゃすまねえが、ひとっ走りして、町役人を呼んできてくれないか。ひとつ、なかを調べてみてえと思うから……」 「お、親分さん!」 「いいってことよ。おまえさんにはかかわりあいのねえことだ」 「は、はい」  若女房はふるえながらも駆け出して、すぐ町役人を呼んできた。 「お玉が池の親分、なにかこの家にご不審の点でも……?」 「おお、これは大家さん、ちょっとなかを調べてみてえと思いますから、つきあってください。それから、おかみさん、おまえさんにゃまたなにか尋ねることがあるかもしれねえから、ここで待っていておくんなさい。それ、辰、豆六」  格子には果たして締まりがしてなく、上がりかまちの障子をひらくと、なかは仕事場で、いろんな人形がたなのうえに飾ってあった。  もう間もなく雛《ひな》の売り出しだから、幸兵衛も仕事に忙しかったことと思われる。仕事台のうえには、作りかけの人形や細工道具が乱雑にならんでいたが、なんとなくそれが、だれかの手によってかきまわされたように思われるのは気のせいか。 「あっ、お、親分、こ、これゃ血じゃありませんか」 「あっ、そやそや、こら、血や。だれかが血に染まった手で、そこらじゅう、かきまわしていきよったにちがいおまへんで」  なるほど、仕事台のうえに点々と、血が垂れているのみならず、たなに飾った人形にも、ところどころ血をなすったような跡がついている。 「お、親分、幸兵衛さんが、ど、どうかしたんでしょうか」  大家さんは年がいもなくふるえている。 「そうだ、その幸兵衛さんはどうしたんだ。辰、豆六、家中くまなく調べてみろ」 「おっと、がってんだ」  仕事場のつぎは長六畳、その押し入れをひらいてみて、 「わ、お、親分、こ、こ、幸兵衛はやっぱり……」 「こ、こ、殺されて……」  辰と豆六の声に、佐七と大家さんがすっとんでいくと、下手人は幸兵衛の死体を布団と布団のあいだに押し込んでかくしていくつもりだったらしいのだが、その目的をじゅうぶん果たせなかった理由はすぐわかった。  かみ切られた小指   ——三人の隠密《おんみつ》が江戸から伏見をさして  夜具と夜具とのあいだから、上半身乗りだすようにして、虚空をつかんでいる老人の首のまわりには、細ひもがくいいるように巻きついているのだが、その口のまわりは血だらけで、しかも、食いしばった歯のあいだから、なにやら血に染まったものがのぞいている。 「大家さん、見てください。幸兵衛さんにちがいありませんか」 「へ、へ、へえ、お、お、親分、こ、こ、これゃ、こ、こ、幸兵衛さんで……」  さすがに腰はぬかさなかったが、大家さんは歯の根があわない。 「よし、辰、豆六、仏が口にくわえてるものを取り出してみろ」 「がってんです。豆六、手つだえ」  それはそうとう困難な仕事だった。なにしろ、死にものぐるいでくわえているのを、できるならば仏のからだを傷つけずに取り出そうというものだから、やっかいなのもむりはない。  それでもやっと取り出したものをみて、一同おもわず目をみはった。 「お、お、親分、こ、これゃ人間の指ですね」 「そやそや。しかも大きさからみて、こら、女の小指だっせ」  前後の事情から察して、それはゆうべとなりの女房がふろがえりに表で会った女にちがいない。  しかも、となりのおかみさんの話によると、そいつはくし巻きの女だったという。おそらく、緑町の路地口から、お美乃をだまして連れ去ったその女は、お美乃の口からこの家を聞き出したにちがいない。  それを思うと、佐七は、地団太をふむようなくやしさを、心の中でかみしめた。  ゆうべ辰や豆六の話をきいて、すぐこの家へ駆けつけていても、時間的にまにあっていたかどうかわからない。しかし、ここでこのような惨劇が演じられているとしったら、緑町のほうへ網の張りようもあったのである。そうしておけば、そっちのほうのくせ者だけでも、取り押さえることができたかもしれないのだ。しかし、それはいまさらいってもしかたがない。  それはさておき、幸兵衛は首を絞められるとき、苦しまぎれに女の小指をかみ切ったにちがいない。女は指をかみ切られ、その苦痛に耐えかねながらも、押し入れのなかに死体をかくそうとしたのは、少しでも犯行の発見をおくらせようという魂胆だったのだろう。死体の突っこまれた上下の夜具には、いっぱい血がついていた。  しかし、それはなぜだろう。それに、仕事場にある人形や細工道具に、ベタベタと血がついているのはどういうわけか。  それは、女が幸兵衛を殺したのちに、なにかを物色していたからではないか。女ははたして物色していたものを見付け出して持ち去ったのだろうか。  いや、もしそうならば、緑町の一件はなかったはずだ。かれらがなにかを探していることは、藍微塵《あいみじん》の男が、辰のふところをさぐったところからでもしられている。  それを女がここで見付けていたら、それから数刻のちに相棒と思われる男が、危険を冒してまで緑町へ忍びこむ必要はなかったはずである。しかも、善之助はなにひとつ、これはと思うようなものは身につけてはいなかった……。  とすると、かれらが探しているものは、まだこの家のどこかにかくされているのではあるまいか。  佐七の目はきゅうに爛々《らんらん》と輝きはじめた。 「辰、てめえ表に待っているとなりのおかみさんをここへ呼んできてくれ。いや、ここじゃいけねえ。となりの仕事場にしよう」 「おっと、がってんです」  おかみはおずおずと仕事場へはいってきたが、幸兵衛が殺されているときいて、恐怖のために、ひとみが宙にうわずっている。 「おかみさん、おまえさんにちょっと聞きてえんだが、善之助が去年の暮れここへころげこんできたとき、なにか持ってやアしなかったかえ」 「はあ、なにかとおっしゃいますと……?」 「いえさ、振り分け荷物やなにかのほかに、なにかこう……」  佐七は説明に困ったが、それをきいているうちに、いままでおびえきっていた女房の目が、きゅうに火がついたように輝いた。  そこに並んだたなのうえの人形に目をやると、 「ああ、そうそう、そうおっしゃれば、善之助さんは、いつもじぶんでつくった人形を、お美乃ちゃんに持ってくるんです。こんどもそれだけは忘れずに、持ってきたという話でしたが、それ、そのたなのうえにある藤娘《ふじむすめ》がそれなんです」  それをきいて、佐七の目にもハッと火がついた。その藤娘は身の丈一尺五寸くらいもあったろうか。手にとってしらべているうちに、佐七の顔には確信の色が強くなる。  伏見焼きというのは、もと宮中へおさめる土器だったが、それをのちに、さきにも述べた鵤《いかるが》幸右衛門というものが、はじめて土人形をつくったといわれている。  その製法は、表と裏をそれぞれ型に取ってつくったものを、素焼きにしたあとにかわ[#「にかわ」に傍点]であわせて、それに彩色をほどこすのである。  いま佐七の手にしている藤娘も、そのとおりの製法でつくられているが、いちどくっつけたにかわをおとして、あとでまたくっつけなおした跡が歴然としている。  佐七は仕事台のうえから、手ごろの道具をとりあげると、すばやく継ぎ目のにかわをけずりおとしたが、すると、果たして、表と裏とはがれた人形のうつろのなかから出てきたのは、なにやら書き物のようなもの。 「あ、親分!」 「し、黙ってろ」  書き物はふたとおりあって、ひとつは善之助の旅日記、いまひとつは「上」と、うわがきした奉書の紙だが、このほうには、べったりと血がついている。  佐七はそれをひらいてみたが、とたんに、さっと顔色がかわった。 「お、親分、そ、それは……」 「じ、じ、直訴状やおまへんか」 「しっ、だまってろ。てめえらのつべこべ口出しすることじゃアねえ」  それからまもなく、となりの女房に礼をいい、町役人にあとをまかせて、二通の書き物をふところに、幸兵衛の家を出ると、 「辰、豆六」  と、ふたりをふりかえった佐七の顔色はかわっていた。 「おまえたちに用がある」 「へえ、へえ、親分……」 「わてらに御用とおっしゃるのは……?」  さすがに辰と豆六も、面を緊張させている。 「辰、てめえはこれからさっそく、鳥越へおもむいて、兄いの家をさぐってみろ」 「おっと、がってん。御朱印の吉五郎てえ野郎を挙げちまうんですね」 「バカ野郎。あいてはかりにも伏見のお奉行様配下のものだ。うかつに手出しをしちゃならねえ」 「じゃ、どうするんで」 「あいてがどこかけがをしていやアしねえか、こっそり調べてみるんだ。けがをしてるとわかっても、うかつに手出しをするんじゃねえぞ。ただ逃がさねえように、根気よく見張っているんだ。それも、鳥越の兄貴にも悟られねえようにな」 「わかりやした。ちっ、いまいましいあの海坊主め」 「親分、それからわての役まわりは……?」 「てめえは馬道の、からすの平太のところへまわって、くし巻きの女のことを頼んでこい。どこにもぐっているのかしらねえが、小指をかみ切られているんだから、そうかんたんには逃げられめえ」 「へ、そして、居所がわかったら……?」 「そうよなあ。こいつも当分、泳がせておこうよ。ただ心配なのはお美乃のことだが、まさか殺しもしめえ。どこかへ売りとばそうという魂胆だろうが、それだけは、なんとしてでも、食いとめなきゃいけねえ」 「おっと承知。そして、親分はこれからどこへ……?」 「おれは八丁堀へおうかがいして、神崎のだんなに相談してみる。こいつそうとう、やっけえな一件になりそうだから、てめえたちも、決して早まるんじゃアねえぞ」  佐七の憂色はふかかった。  直訴は天下の法度である。その内容が事実としても、その取り扱いはよほど慎重でなければならぬ。  神崎甚五郎も佐七の話をきくと、富士山が爆発したほど驚いた。  密談数刻ののち、甚五郎からこの由が南町奉行に報告され、南町奉行からこの問題が評定所へ持ち出されたのはその翌日のこと。そして、評定所からえらばれた三人の隠密《おんみつ》が、それぞれ姿をかえて、伏見をさして江戸を旅立ったのは、さらにそのつぎの日のことだった。  伏見騒動|顛末《てんまつ》   ——春や春、お粂佐七めおとの捕り物  伏見奉行、川路大和守直久からの通牒《つうちょう》には、大きなうそがあった。  伴左衛門、伝右衛門のふたりはどろぼうではなく、かれらは伏見の義民であった。  大和守という人物は、腹黒いというほどではなかったが、才走って功をいそぎ、その政道にはいきすぎが多かった。  それに、配下に腹黒い人物があり、いきおい苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》にかたむいた。  伏見一円はこれがために、ちまたに怨嗟《えんさ》の声がみちあふれ、やがては鼎《かなえ》の沸くような騒ぎとなり、いまにも、一揆《いっき》の勃発《ぼっぱつ》しそうな形勢にあった。  この情勢を憂えたのが、伴左衛門、伝右衛門の二長老、かれらは一身を犠牲にして、幕府じきじきの裁断をあおごうと決意した。  しかし、ふたりとも江戸の事情にくらいので、協議の結果、案内役にえらばれたのが善之助だった。人形作りの善之助は、毎年江戸へ出ているので、かっこうの案内役ではあったが、これまた命がけの仕事だった。  かくて、三人はひそかに伏見を出奔したが、このことは、すぐ役人のしるところとなった。  かれらはあわてて、江戸町奉行にひとを派遣して、三人をどろぼうといいこしらえるいっぽう、べつに伏見奉行所つきの目明かし吉五郎にむねをふくめて、三人を途中でなきものにせんと謀ったのである。  善之助の旅日記によると、伴左衛門は宇都谷《うつのや》峠で、伝右衛門は箱根山中で、それぞれ、吉五郎の手にかかって殺されたらしい。  善之助はからくも虎口《ここう》をのがれて、江戸へ潜入することができたが、かれは単なる案内役である。  どうしていいのか、その才覚に困っているうちに、これまた吉五郎に見つかって、あやうく殺されようとしたのである。  ここまでは、善之助の旅日記で分明したところだが、それからのちは佐七の想像である。  善之助をたおして、重荷をおろした思いの吉五郎は、思いがけない事態にぶつかっておどろいた。  辰と豆六の万歳である、  あのかぞえ歌は、伏見の町人や、近郷在住の百姓たちの、奉行にたいする怨嗟《えんさ》の声だった。  それを思いがけなく江戸の町で、しかも、えたいのしれぬ万歳の口からきいた吉五郎のおどろきは、大きかったにちがいない。  それに、吉五郎は、首尾よく三人をたおしたものの、伴左衛門らのしたためた直訴状を手にいれていないのが、気がかりだったにちがいない。  そこで、万歳のあとをつけまわしているうちに、柳原堤の立ち聞きで、お美乃という娘が善之助をしっているらしいのを、相棒のお種が知った。  お種は緑町までお美乃をつけて、ことばたくみに彼女をあざむき連れ去ると、その口から善之助の宿所をしった。そして、その夜みずから幸兵衛の住まいへ押しかけていくと、女だてらに幸兵衛を殺し、直訴状のありかをさがしたが、さすがに人形の胎内までは目がとどかなかったのだろう。  そこで、さいごの手段として、吉五郎が緑町のお源の住まいへしのびこみ、善之助の息の根をとめると同時に、あわよくば直訴状を取りもどすつもりだったのだろうが、これまたお粂の機転で失敗してしまった。  こうなると、この一件の殊勲甲は、お粂だったかもしれない。  評定所から伏見へ放たれた三人の隠密が、江戸へかえってくるには二十日かかった。その三人の報告から、川路大和守直久の悪政は、ことごとく明るみへ出てしまった。大和守の失脚は、もう必至という状態になってきた。  こういうこととは夢にもしらぬ吉五郎、善之助のことはあきらめて、江戸を発足することになったのは、正月ももうあと二日残すのみとなった二十九日の朝まだき、世ももうだいぶん春めいていた。  それをご苦労にも品川まで送ってきたのは海坊主の茂平次だ。 「鳥越の、このたびはいろいろ世話になった。せっかくおまえさんに骨を折ってもらったが、こうして見つからぬところをみると、三人のやつ、江戸へはいってこなかったのだろう」 「いや、おめえこそむだ骨で気の毒だったな。せっかく久しぶりに江戸へきたんだから、骨休めにゆっくり江戸見物でもしてもらおうと思ったのに、あいにくの脛《すね》の傷で残念だったな」 「あっはっは、たかが野良犬にかみつかれた傷と、油断をしたのがまずかった。兄いにまで心配かけてすまなかった」  さては、吉五郎のやつ、鶴蔵にかっさらわれた向こう脛の傷を、野良犬にかみつかれたと、いいつくろっているらしい。 「でも、おめえ、大丈夫かえ、その脚で。東海道はさきがなげえからな」 「なあに、大丈夫、この竹づえ一本あれゃ鬼に金棒だ」  吉五郎は仕込みづえを地について、軽いびっこを引いている。 「それゃ、おまえのことだから抜かりはあるめえが、それじゃ、そのうちおれもいくぜ」 「ああ、ぜひこの恩返しはする」 「それじゃ、御朱印、手をしめよう」  シャンシャンシャンと、手をしめおわったところへ、バラバラとあらわれたのが辰と豆六だ。 「御朱印の吉五郎、御用だ」  文字どおり脛《すね》に傷もつ吉五郎は、思わずぎっくりよろめいたが、それをきいて烈火のごとくいきり立ったのは海坊主の茂兵次だ。 「やい、やい、やい、辰、豆六、それはいってえなんのまねだ。お客人に指いっぽんさしゃアがると、この茂兵次さまが承知しねえぞ」  脂ぎった大あばた、おびんずる様みたいな顔をてらてら光らせ、目を三角に、口からあわを吹いているところへ、辰と豆六の背後から、ズイと現れたのは人形佐七。 「いや、鳥越の、お手柄、お手柄、その凶状持ちの吉五郎を、いままで足止めしておいたるだん神妙なりとあって、いまにお奉行所からごほうびがあるはず」 「あれ、お、親分、そんな段取りになってるんですかえ。そ、そんなバカな……」 「ほんまや、ほんまや、ほんならわてらの苦労はどないしてくれやはりまんねん。ああ、あほくさ!」 「つべこべいわずと、さっさと吉五郎に縄かけてしまえ。鳥越の。手出しは無用だぜ」 「なにをしゃらくせえ」  もういけないと思ったのか、吉五郎はズラリと仕込みづえを引きぬいたが、そこへバラバラ駆けよってきたのが、道中姿の大年増。  見えがくれに、そのあとを追ってきたのがお粂である。 「おまえさん、やっぱりこの女だよ。いつかさんざんあたしに恥をかかせたお種というのは……それに、この女の左の手をごらん、小指を半分食いきられている」 「お粂、でかした。それじゃついでに雑魚もすくおう」 「えっ、生意気な。こっちこそ恨み重なる人形佐七、吉つぁん、しっかりしておくれ」  いやはや、そのときの海坊主の顔こそみものであった。  七面鳥のように赤くなったり、青くなったり、目をシロクロさせながら、あちらへウロウロ、こちらへチョロチョロ。 「わ、わ、わ、こ、こ、これはいったいどうしたことじゃい」  サツマ芋のような赤っ鼻から湯気をモヤモヤ、出っちりおっ立て右往左往しているまえで、お種吉五郎、悪運つきてお縄をちょうだいしたというのは、まことに笑止千万、当時江戸中のお笑いぐさとなったという。  お美乃は奥山の女衒《ぜげん》のうちに押しこめられていたのを、からすの平太の手で救い出された。  お美乃の介抱で、善之助の記憶も、しだいに正常に復しつつあるという。  伏見奉行川路大和守直久はそれからまもなく、お役御免になったが、乱心の結果自刃したというが、これも小人功をあせったせいだろうと、当時もっぱら取りざたされたという。    神隠しばやり  花嫁|失踪《しっそう》   ——お床入りまぎわに花嫁が消えた 「親分さん、おかみさん、明けましておめでとうございます」  本所緑町にすむ辰《たつ》の伯母《おば》のお源というのが、神田お玉が池の佐七のところへ新年のあいさつにきたのは、とっくのむかしに松もとれた正月二十七日のことである。  江戸時代の正月二十七日といえば、新暦ではそろそろ三月、日いちにちと日もながくなり、陽気もポカポカ、暖かくなりそめるころである。 「おや、お源さん、いらっしゃい。その後どう、かげんは……?」 「はい、ありがとうございます。やっと起きられるようになりました。親分さん、その節はいろいろとありがとうございました」 「なあに、その礼にゃおよばねえが、しかし、お源さん、おまえも、だいじなかきいれどきをわずらいついて、とんだお正月だったなあ」 「ほんに、年一年と、としをとるのがわかります。こんな風邪ぐらいと、やせがまんを張っていたのがまちがいのもと、から意気地がございません」 「お源さん、そんな弱音をはくものじゃありませんよ。おまえさん、まだ若いじゃないか。まだまだこれからですよ」 「ほんにせがれが弱うございますから、孫たちのためにも、わたしががんばらねばならぬところを、こんどは暮れからわずらいついて、嫁にとんだ苦労をかけました」 「ほんに、竹さんのよわいのは困りもんだが、そのかわり、いい嫁をもっておまえさんもしあわせだ。まったくよくできた嫁だぜ、お信《のぶ》さんというひとはな」 「親分さんに、そんなにいっていただくと、わたしもどんなにうれしいかわかりません」  と、年寄りの涙っぽく、お源はついそで口を目にあてる。  このお源には竹蔵というせがれがひとりあって、今戸で瓦《かわら》をやく職人をしているのだが、体がよわく、とかくわずらいがちなので、お源もせがれをたよりっきりにはできなかった。  そこで、両国のおででこ芝居へでて、下座の三味線をひいているのだが、暮れにひいたかぜをこじらせ、かき入れどきの正月をふいにしたばかりか、とんだ大世話場を演じてしまったのである。 「これはまあ、わたしとしたことが、正月そうそう涙をおみせして、とんだ失礼をいたしました」  と、お源はてばやく涙をふくと、 「ときに、おかみさん、辰や豆さんは?」 「さっき髪結い床へいくといってでかけましたが、おっつけかえってまいりましょう。お源さんきょうはゆっくりしておいでなさい」 「はい、ありがとうございますが、そうもまいりません。それよりも、親分さん」 「あいよ」 「いま嫁の話がでたので思いだしましたが、おとといの晩、また花嫁がひとり消えたのをご存じでございますか」 「なに、また花嫁が消えたと……?」  と、いままで屠蘇《とそ》気分で、のんびりしていた佐七の顔が、お源のひとことで、急にひきしまったのもむりはない。  去年のくれに花嫁が、祝言をまぢかにひかえて、神隠しにあったという事件が、あいついで二件おこった。  江戸時代には、神隠しということばがあって、ゆくえ不明になるのをいう。いまのことばでいえば、人間蒸発というところで、当時は、ふつう、てんぐにさらわれるのだと信じられていた。  だから、いい娘が神隠しにあったといえば、それだけでも評判になるのに、ましてや、祝言をまぢかにひかえた花嫁がふたり、あいついで神隠しにあったというのだから、これが評判にならずにはいない。  読み売りにまでうたわれる騒ぎであった。  しかし、その当時の人間としては、佐七はわりにあたらしいほうで、かれは神隠しの説を信じなかった。  だから、ふたりの花嫁候補があいついで、ゆくえをくらましたというさわぎにも、わりに無関心でいられた。  これががんぜない幼児ならば、誘拐《ゆうかい》ということも考えられるけれど、お嫁にいこうというとしごろの娘が、そうたわいもなく、かどわかされるとも思われない。  それが、祝言をまえにひかえて、すがたをくらましたというのには、そこにはそれだけの理由があるのだろう。つまり、気にそまぬ縁談をきらって、すがたをくらましたのではないか。  こういうことは、とかく、一種の連鎖反応をひきおこすもので、ひとりの娘が、気にそまぬ縁談をきらってすがたをかくし、破談に成功すると、それではわたしも……ということにならぬともかぎらぬ。  佐七はそういうふうに踏んでいたので、いままでおこったふたつの花嫁|失踪《しっそう》事件については、それほどおおくの関心をはらっていなかったが、ここにまた、第三の事件がおこったとすれば話はべつである。  連鎖反応とすれば、いいかげんにやめさせなければならないし、また、三つの花嫁失踪事件に、なにかかくれた関連があるとすれば、捨ててはおけぬ……。  と、さてこそ佐七の顔色は、きっと緊張したのである。 「しかも、ねえ、親分さん」  と、佐七が乗り気になったらしいのに力をえたのか、お源はひとひざゆすりだすと、 「去年のはふたりとも、祝言のまえに神隠しにあったのでございましたわね。ところが、こんどはそうではなく、祝言もめでたくおわって、お床入りというまぎわになって、花嫁さんが消えてしまったという話です」 「まあ、お床入りまぎわになって……?」  茶をくんでいたお粂もおもわず息をのんで目をみはった。 「お源さん、そりゃいったいどこの嫁だえ」 「親分さんはご存じですかどうですか。松坂町の吉良《きら》様の屋敷跡ちかくに伊豆綿屋《いずわたや》という大きな綿屋さんがございます。そこのひとり息子さんの勘六さんというかたが、おとといの晩、お嫁取りでございました。その花嫁のお藤《ふじ》さんというひとが、いま申しましたとおり、お床入りまぎわに……」 「それで、そのお藤というのはどこの娘だえ」 「それがなんでも、深川の漁師の娘さんだそうでございます。ところが、おととし、父親が亡くなったとかで、家がくらしにこまるところから、八幡前《はちまんまえ》の水茶屋で茶くみ女をしていたところを勘六さんが見そめたとやらで、両親の反対をおしきってのご祝言だったということでございます」 「いったい、その伊豆綿屋というのはどういううちだえ。ご近所の評判やなんか……」 「はい、だんなは勘右衛門さん、おかみさんはお六さんとおっしゃるそうですが、一代分限ですから、そこにはいろいろ……奉公人の使いかたの荒いので有名なお店だそうで、ご近所でも伊豆綿屋といわずに、意地悪屋とよんでいるそうですから、だいたい、見当がつくじゃございませんか」 「それで、せがれの勘六というのはどういう評判だえ」 「それもきいてまいりましたが、なにしろひとり息子のわがまま育ち。奉公人にはつらい伊豆綿屋さんご夫婦も、息子さんにかけては大あまだそうで、癇癖《かんぺき》のつよい、いばりんぼうで、近所|合壁《がっぺき》、鼻つまみの息子さんだそうでございます」 「あっはっは、そう三拍子も四拍子もそろってちゃ、花嫁さんが逃げだすのもむりはなさそうだが、それにしても、お藤というのはどういう娘だ」 「親分さん、わたしもそこまでは……」 「ああ、そうか。いや、お源さん、よく知らせておくんなさった。お粂、お源さんにお年玉を……」  さすがは辰の伯母さんだけあって、お源は地獄耳をもっていて、その聞きこみが佐七の手柄に役立つこともめずらしくないのである。  意地悪屋一家   ——おそらく吉蔵が裏木戸に待っていて 「親分、だいたいのことはきいてまいりました」  その翌日の夕方のこと、三度目の花嫁失踪事件について、ききこみにとんでいた辰と豆六のうち、まず辰がかえってきての報告である。 「伯母《おば》もきのういってましたが、伊豆綿屋というのは、ことごとく、評判がよくありませんね。夫婦ともけちんぼで因業で、奉公人などもながつづきするのはめずらしいそうです。いや、ながつづきしねえように、夫婦でしむけていくんですね。あんまりながくいつかれちゃ、のれんをわけてやらにゃならない。それがやっかいだというので、つかうだけつかって、のれんをわけてやる年ごろになると、いるにいられないように仕向けていくか、なんとかかんとか難癖つけて追いだすんだそうで、去年のくれにも忠七という手代が、若だんなの勘六に口ごたえしたとかいう理由で、十年以上の奉公を棒にふったそうです」 「そいつはひどいな」 「へえ、もう、鬼の女房に、鬼神だって評判です。ところで、息子の勘六、こいつがまた、親に輪をかけたような因業息子、うすのろのくせに、わがままで、いばりたがりやで、しかも猛烈な癇癖《かんぺき》ときている。そんなふうですから、いいところから嫁にきてがねえんです。勘六はことし二十七、なにふじゆうなくくらしてるお店の、しかもひとり息子にしちゃ、ずいぶん嫁取りがおそいほうですが、いままでなんべん縁談があっても、土壇場になるとこわれてしまうんです」 「そりゃそうだわね。だれだってそんなところへ、かわいい娘を嫁にやれやあしない」  と、お粂は吐きだすようにつぶやいた。 「そうですとも。それですから、勘六も業をにやしているうちに、八幡前の水茶屋、扇屋というのではたらいていた漁師の娘、お藤というのを見そめたんです。で、けっきょく、まあ、そういうところからしかもらえないと、両親もあきらめたのか、それとも、そういう貧乏人からもらっておけば、ぜいたくはいわないだろうし、こきつかうにもいいだろうというので、承知したんだろうって、近所ではいってるんです」 「まるで、それじゃ奉公人だな」 「両親にしちゃ、そんなつもりなんですね」 「ところで、お藤というのはどうなんだ」 「いえ、それも調べてきました。こいつはとてもかわいそうな娘で、おととしおやじがなくなって、あとにはお近というおふくろと、お力といって、ことし十六になる小娘と三人とりのこされたんです。ところが、このおふくろというのが目が見えないので、お藤がはたらくよりしかたがなくなった。ところが、かわいそうだというのは、このお藤にゃ、いいかわした男があったんです。やっぱり漁師のせがれで、吉蔵というんだそうですが、こいつが去年の秋のおわりごろ、沖で大しけをくらってゆくえしれず、てっきり死んだものとあきらめて、お藤も伊豆綿屋との縁談を承知したんですね。ところが、なんと、この吉蔵というのが生きていて、しかも、ときもあろうに祝言の日に、ひょっこりかえってきたんです」 「まあ!」  と、お粂は息をのむ。佐七もおもわず耳をそばだてた。 「なんでも通りかかった船に救われたのはよかったが、それが仙台石巻《せんだいいしのまき》通いの船で、そのままそっちへつれてかれて、やっとこの二十五日に、江戸へかえってきたんです。お藤もずいぶん泣いたそうですが、伊豆綿屋から支度料としてもらった一両をつかいきっているので、いまさらことわるわけにもいかない。そこで、吉蔵とは泣きの涙でわかれて、その晩、伊豆綿屋へ嫁いできたんですね」 「そいつはかわいそうに。それで、お藤のみえなくなったいきさつというのはどういうんだ」 「それはこうです。めでたく……か、ふめでたくかしらねえが、とにかく祝言の杯もすみ、花嫁花婿はおくの離れへひきとったんですね。そこで花婿はお床へはいる。花嫁はご不浄へといって、でていったきり、待てどくらせどかえってこない。そこで、花婿さんがしびれをきらして迎えにいくとすがたがみえない。そこで、両親を起こして家じゅう調べてみると、裏木戸の掛け金がはずれている……といったようなわけなんです。しかし、さすがに伊豆綿屋でも外聞をはばかって、とうぶん、内緒にしておくつもりだったらしいんですが、こういうことはかくしきれるもんじゃありませんや、すぐ近所じゅうの評判になって、伯母の耳にもはいったてえわけです」 「しかし、ねえ、辰つぁん、そのときの花嫁の衣装というのはどうなのさ。やっぱり白無垢《しろむく》だったんでしょう」 「いえ、ところが、あねさん、もう長襦袢《ながじゅばん》になってたそうです。だから、いっそう勘六も逃げられたとはおもわなかったんですね」 「だけど、長襦袢で道中は……?」 「だから、あっしゃおもうんだが、だれかが……おそらく吉蔵でしょうが、裏木戸のそとで待ってたんでしょうな、着物を持って……」 「その吉蔵はどうしてるんだ」 「ところが、その吉蔵は祝言の晩、どこかへでかけたきり、かえらねえんです。てっきりお藤と駆け落ちしたんだろうと、豆六がいま心当たりをさがしてます」 「ふうむ」  と、佐七は腕こまぬいてかんがえこんだが、そのとき辰はひざをすすめて、 「ところで、親分、このことは、こんどの一件とかかりあいはねえと思うんですが、ちょっと妙なことをきいてきました」 「妙なこととは?」 「去年神かくしにあったふたりの花嫁のうち、さいしょのが京橋の大和屋《やまとや》という呉服屋の娘で、名まえはお町というんでしたね。それから二度めのが、横山町のきさらぎ屋で、名はお蝶《ちょう》。このお蝶というのは、かきがら町の越前屋《えちぜんや》という小切れ屋へ嫁にいくことになっていたところが、祝言のまえの日になって、ゆくえをくらましたんです。ところが、その花嫁に逃げられたほうの越前屋というのが、こんどお藤ににげられた伊豆綿屋とは、しごく昵懇《じっこん》な仲だそうです」 「なんだと?」  佐七の目がおもわずキラリと光った。 「つまり、越前屋の亭主《ていしゅ》の甚兵衛《じんべえ》というのと、伊豆綿屋の亭主の勘右衛門とは、むかしのぼて振り仲間、どちらも一代|分限《ぶげん》なんですね。それだけに、気性やなんかもよくにていて、越前屋のほうもあんまり評判のよくない家なんです。きさらぎ屋ではそれとはしらずに、仲人口にだまされて縁組みしたが、お蝶はだれかにそれをきいて、土壇場になってすがたをくらましたんだろうという評判で、松坂町かいわいでもそれをしっているもんだから、こんどの伊豆綿屋のことも、そらみろと笑ってるそうです」 「なるほどね」  佐七がおもわずため息をもらしたとき、 「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」  と、糸のきれた奴凧《やっこだこ》のように、キリキリ舞いしながらとびこんできたのは、いわずとしれた豆六だ。 「どうした、豆六、騒々しい」 「騒々しいどこやおまへんがな。消えた花嫁がころされよった」 「なに、消えた花嫁がころされたと……?」 「それじゃ、豆六、お藤がころされたのか」 「いえ、お藤やおまへん。去年の暮れ、神かくしにおうたきさらぎ屋の娘のお蝶が、死骸《しがい》になってでてきよった」 「ど、どこで……?」 「大川のしもの、枯れ葦《あし》の浮き州のうえに流れよったんです。親分、はよきとくなはれ」  こうして、消える花嫁一件は、がぜん、怪奇の面貌《めんぼう》をおびてきたのである。  偽《にせ》神かくし   ——伊豆綿屋の手代の忠七さんが  佐七が辰と豆六をひきつれて、とるものもとりあえず、葦《あし》の浮き州へ舟をこぎつけたときには、もうとっぷりと日の暮れた暗やみのなかに、あわただしくちょうちんの灯がゆきこうていた。 「おお、お玉が池の。ご苦労だったな。とんだことが持ちあがったが、ひとつよろしく頼むぜ」  先着していた同心|岡部《おかべ》三十郎のあいさつである。 「ほんとに思いがけないことで……あっしも、まさかころしにまで発展しようたア思いませんでした。ああ、おまえさんが親ごさんで」  べったりと泥のうえにへたって、放心したような顔をしていたきさらぎ屋の亭主五兵衛は、佐七に声をかけられると、きゅうにハラハラと熱涙をたぎらせて、 「親分さん、おねがいです。どうぞ娘の敵《かたき》をとってやってください」 「承知しました。それじゃ、とりあえず仏様を……」  すでに検視もおわり、迎えの舟をまっていた亡骸《なきがら》から、かけてあったこもをまくると、したからあらわれたのは、十七、八のぽっちゃりとしたかわいい娘だが、島田に結うた髪ががっくりくずれ、くわっとみはった目がものすごい。  佐七はちょうちんをつきつけてみて、のどのあたりに目をやると、おもわずぎょっと息をのんだ。ひもかなんかで絞めころされたとみえて、白いのどのまわりに、くいいるような跡が紫色に……。 「親分さん、見てやってください。両手や胸にかすりきずをたくさんうけ、着物にもあちこちかぎ裂きができているところをみると、ずいぶん手向かったものとみえます。ころされるときは、さぞ怖かったろうと……?」 「それで、だんな、男にいたずらされたようなけはいは……?」 「それが、親分、さんざんおもちゃにされたあげく、絞めころされたらしいんで……」  と、きさらぎ屋五兵衛は、おいおいと男泣きになき出した。 「いや、お察しいたします。しかし、この死骸《しがい》はいったいだれが見つけましたので……」 「へえ、それはあっしで……」  と、暗がりのなかから顔をだしたのは、まだ二十三、四の若者で、日にやけた顔がたくましい。みなりをみると漁師のようだ。 「おまえはどういう……?」 「へえ、あっしは深川の州崎《すさき》にすむ漁師のせがれで、吉蔵というもんですが……」 「な、な、なんやてえ!」  と、豆六がすっとんきょうな声をつっぱしらせたので、吉蔵はぎょっとそのほうへ目をむけた。 「どうかいたしましたか」 「いや、いい。それで、その吉蔵がどうしてこの死骸を見つけたんだ」 「へえ、夕方ごろこのへんを、船をこいでとおりかかりますと、ここにちらちら赤いものが見えます。どうやら、それが着物のようにみえたので、妙におもってこぎよせてみると、このしまつで……」 「なるほど、吉蔵、おまえにはあとでたずねることがある。ときに、岡部のだんな、この死骸がどうしてきさらぎ屋の娘さんだとわかりましたので」 「いや、佐七、それはこのけいこ本のせいよ」  と、岡部三十郎がふところからとりだしたのは、長唄《ながうた》のけいこ本で、それには横山町、きさらぎ屋、蝶《ちょう》、と、名まえが書いてある。しかも、そのけいこ本がどろにそまってはいるものの、たいして水にぬれていないところを見ると、この死骸《しがい》は流れよったものではなく、だれかがここへ持ってきておいていったものである。 「なるほど、これは……」  と、佐七はキラリと目を光らせたが、ちょうどそのとき、亡骸《なきがら》を迎えにきた舟がついた。 「きさらぎ屋のだんな、もうすこしおたずねしたいことがございますが、それじゃ永代橋の番屋へいってお話をしましょう。吉蔵、おまえもいっしょに来てくれ」 「へえ」  吉蔵は暗い目をしてうなずく。辰と豆六はゆだんなくそのようすに目をつけている。  それからまもなく、舟が岸へつくと、五兵衛は亡骸を駕篭《かご》にのせ、つれてきたふたりの手代につきそわせて、ひと足さきにかえすと、じぶんは涙をふきながら、岡部三十郎や佐七について、橋番所のなかへはいってくる。吉蔵もふてくされた顔をして、それでも、辰や豆六につきそわれてはいってきた。 「まず、きさらぎ屋のだんなにおたずねいたしとうございますが……」 「はあ……」 「お蝶さんは去年、かきがら町の越前屋さんとご縁談がさだまっておりましたのを、ご祝言を目のまえに、とつぜん神隠しにあわれたというおうわさでございましたが、こうして、長唄のけいこ本なんか持っていらっしゃるところをみると、ごぶじに江戸へかえっていらっしたのでございますか」 「おそれいります。あのせつは世間をさわがせまして、まことに申しわけございませんでした」  と、五兵衛は恐縮そうに肩をすぼめると、 「ありようを申し上げますと、あれはこういうわけでございます。越前屋さんの跡取り息子、甚三郎さんと話がきまり、結納もとりかわしたそのあとで、越前屋さんのご家風なり、また甚三郎さんのお人柄なりをくわしく知らせてくだすったかたがございますんで。そのお話をうけたまわり、お蝶はおびえる。わたくしども夫婦も、すっかり肝をつぶしてしまいまして……いえ、よそさまのことを、とやかく申すわけではございません。どこのおうちにも、それぞれ、ご家風というものがございますが、そのご家風が、およそうちとは合いません。といって、結納まで取り交わしたとあっては、破談もおだやかならず、といってみすみすかわいい娘を見殺しにするのもふびんと、胸をいためておりますところへ持ちあがったのが、京橋の大和屋さんの娘ご、お町さんの一件、あのかたが祝言をまえにして、神かくしにあったというので、当時、評判でございました。そこでうちも、そのまねをしてみたら……神かくしなら越前屋さんにもいいわけが立つだろうと、まあ、苦しまぎれのさるの浅知恵で、下総《しもうさ》の遠縁のもとへお蝶をあずけ、世間へは神かくしといいふらしたのでございます」 「それで、越前屋のほうはおだやかに納得したのでございますかえ」 「いえ、それがなかなか……なにしろ、むこうには松坂町の伊豆綿屋さんというしたたかもの……いえ、あの、しっかりしたかたがついていらっしゃいます。そのかたが、毎日のようにやってこられて、お蝶をだせとのこわ談判。けっきょく、破談料として百両差し上げ、やっと収まりをつけましたようなわけで……」  佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせた。なるほど、意地悪屋の名にそむかない。 「そうして、たいまいの金まで出したいじょう、なにもお蝶をいつまでも草深い田舎にかくしておくことはあるまい。それに、きけば、越前屋さんにはその後よいところから嫁御寮がこられたといううわさなので、年があらたまってから、お蝶を江戸へ呼びもどし、といって、ご近所のてまえ、すぐにうちへいれるのもどうかと、家内のさとが芝の金杉《かなすぎ》でございますので、そこへあずけておいたところが、きのう、長唄の師匠のところへけいこにいったきりゆくえしれず、胸をいためているところへ、この知らせで……」  と、五兵衛はまた熱涙をたぎらせて泣きむせんだ。 「なるほど、いや、もう、なんとも申し上げようもないご災難ですが、ついでのことにもうひとつ、おたずねいたしとうございます」 「はい、なんなりとも……」 「結納を取り交わしたあとで、越前屋さんの内幕をくわしくきかせてくれたひとがあるとおっしゃったが、それはどういう……?」 「はい、去年のくれに伊豆綿屋さんからお暇のでた忠七どんというかたで……」  あっとおどろく佐七と辰と豆六が、おもわず顔を見合わせた。つまり、それだけすきができたのである。とつぜん、吉蔵が豆六をその場に押しころがすと、橋番所からとび出して、 「しまった!」  と叫んで辰があとを追ってでたときには、永代橋のたもとから、真っ暗な川へめがけてドボーン。  もどったお町   ——お町は天狗にさらわれていたらしい 「いいかね、一両といやア、あだやおろそかな金じゃないんだよ。踏みたおされてたまるもんかね。おまけに、世間からはうしろ指をさされる。かわいいせがれは面目ないといってわずらいつく。もし、おっかさん、いったいどうしてくれるんです」  永代橋まできたついでに、ひとあしのばしてと、辰と豆六に案内させて、州崎にあるお藤の家をたずねてきた佐七は、すすけた油障子のまえに立ったとき、なかからもれてきた女の声に、おもわず足をとめて、辰や豆六と顔見合わせた。  ことばのようすから察すると、伊豆綿屋のおかみお六のようである。 「おかみさん、まことに申し訳ございません。憎いやつはあのお藤で、けっこうなお支度までしていただきながら、すがたをくらますとは、なんというやつでございましょう。しかし、このあいだから、たびたびおつかいのかたに申し上げておりますとおり、お藤はこちらへかえっておりません。お輿入《こしい》れの晩から、わたしどもはいちどもあの娘にあってはおりません」  くどくどとかきくどくお近の声につづいて、 「おかみさん、おっかさんのいうとおり、姉ちゃんはあれからいちどもかえってきません」  と、可憐《かれん》な声は妹のお力だろう。 「おや、まあ、こんな子どもまでぐるになって」 「ぐるだなんて、そんな、そんな……」 「おだまり! 子どもの口出しすることじゃない。ねえ、おっかさん、きけばお藤には、吉蔵とやらいう情人《いろ》があったというじゃないか。そんな男のお荷物まで背負いこまれちゃ……」 「お荷物とは……?」  と、ふしぎそうなお近の声に、 「いえ、なにさ、そんなひもつきのからだで、よくのめのめとお嫁に来られたものだ。間男代は七両二分と相場がきまっている。しかし、そこまで因業なことはいわない。支度金の一両に、つぶされた面目代として五両、しめて六両、なんとかしてくれなきゃこまりますよ」 「とんでもございません。その日の暮らしにもこまる貧乏所帯、六両だなんてそんな大金……」 「ないことはないはず」 「とおっしゃるのは……?」 「ここにいるこの娘、たたきうっても十両はとれるだろうよ」  ここにいたって佐七もおもわず声を立てずにはいられなかった。 「あっはっは、なるほど、鬼の女房に鬼神とはよくいったな」 「なによ! だれだい、そこにいるのは?」  と、ふりかえるお六の鼻さきへ、 「はい、ごめんよ。おじゃまさま」  と、がらりと障子をひらいたとたん、伊勢《いせ》音頭の万野をやらせたらさぞよかろうとおもわれるお六の顔から、さっと血の気がひいていった。 「伊豆綿屋のおかみさん、だいじな掛け合いのじゃまをしてすまねえが、おいらもちょっと、このおっかさんにいうことがあってやってきたのさ」 「そういうおまえさんは……?」 「名のるほどのものじゃねえが、神田お玉が池に巣くっている佐七という岡《おか》っ引《ぴ》きでさあね」  神田お玉が池の佐七ときいて、お六の顔色から、ふたたびさっと血の気がひいた。ひざがしらがかすかにふるえているようである。 「これはお見それいたしました。親分もおひとが悪いじゃございませんか。立ちぎきなんてお人柄にさわりますよ」 「なあに、立ちぎきしたわけじゃねえが、表まできたらきこえてきたのさ。だけど、おかみさん、いまのせりふは冗談だろう」 「冗談とは……?」 「……とまあいうところだけれど、お藤の香典代わりとして、一両棒引きにしたうえに、この五両をさしあげると、そういおうとしたところだったんだろ」  お藤の香典代わりときいたとき、お六の顔色がまたかわった。だが、それよりもおどろいたのはおふくろのお近で、見えぬ目の手さぐりで、上がりかまちに乗りだしながら、 「お、親分さん、そ、それじゃお藤は生きてはおらぬと……」 「ふむ、おっかさん、ふびんながら覚悟していたほうがいいぜ。吉蔵もそのけんとうで、お藤さんの死骸《しがい》が流れよりはしないかと、大川筋を洗っているらしい」 「それじゃ、お藤は身投げをしたと……?」 「ふむ、吉蔵はそうかんがえているらしいが、じっさいは神かくしにあった花嫁をさんざんおもちゃにしたあげく、ころしてまわる気ちがいがいるらしいんだな」 「まあ、親分さん、それはどういうわけでございましょう」  と、お六は警戒するような目つきである。 「いや、どういうわけかおれにもわからねえ。なにせ、気ちがいのするこったからね。だから、いちばんはじめに神かくしにあった京橋の、大和屋の娘のお町なども、そのうちにねらわれやしねえかと、おれもびくびくしてるんだ」 「親分、それじゃお町の神かくしもうそなんで」  と、辰はきつねにつままれたような顔色である。 「あたりまえよ。世に神かくしなんてあってたまるもんか。やっぱり、縁談をきらって、大和屋のほうでお町をどこかへかくしたんだ。だが、まあ、そんなことはどうでもいいとして、お藤のことはあきらめたほうがいいぜ」 「お、親分さん……」  あっけにとられたような顔をして、佐七のことばをきいていたお近は、あらためてもういちど引導をわたされると、わっとばかりに泣きふした。  佐七の予言は、はたしてあたった。その翌日、きのうとほとんどおなじ場所で、お藤の死体が発見されて、さすがのんきな江戸っ子たちをふるえあがらせた。  お藤は長襦袢《ながじゅばん》いちまいだった。そして、のどのまわりにはいたましいひもの跡が、紫色にくいいっていた。してみると、お藤は長襦袢いちまいで、伊豆綿屋の裏木戸からぬけだしたのだろうか。そこを外に待っていただれかにしめころされて、大川の川口へはこばれたのだろうか。  しかも、お藤もさんざん男におもちゃにされたらしい跡があきらかだった。  そうなると、あやしいのは吉蔵である。かれは永代橋からとびこんだきり、ふたたびすがたをくらましてしまった。  しかし、佐七はいっこうそのほうへ手配りしようともせず、まるでこの一件、これでけりがついたかのようにのんきにかまえて、お粂をはじめ、辰や豆六を歯がゆがらせた。  しかし、佐七はしっているのである。お藤が妊娠三月ぐらいのからだであったことを……それにもかかわらず、かれは関係者一同に口止めをして、世間にはぜったいそれをしられぬよう心がけていた。  ところが、二月のなかほどになって、また読み売りが江戸中をさわがせるようなことを触れあるいた。  去年の暮れ、神かくしにあった京橋の大和屋の娘、お町というのが、ちかごろ、ひょっこり舞いもどってきたというのである。お町は天狗にさらわれたらしく、いささか気が変になっているので、大和屋では外聞をはばかって、六間堀にある寮に保養させてあるという。 「親分、いつかあんた伊豆綿屋のおかみさんに、お町の神かくしもうそやゆうてなはったが、これでみると、ほんまらしいやおまへんか」  その読み売りを買ってきた豆六は、うちの親分もちかごろやきがまわったらしいと、心のなかでなげくのである。  やみはあやなし   ——股間《こかん》の急所を力一杯にぎられて  深川六間堀にある大和屋の寮は、ちかごろ憂いにつつまれている。  二月のはじめに、どこからともなく、ふらりと舞いもどってきた娘のお町の容態がはかばかしくないからである。お町はことし十八だが、神かくしにあうような娘だけに、知能もいくらかひくいのか、十六くらいにしかみえない。  しかも、一日じゅう、たわいもないことを口走っては、乳母のおもんをハラハラさせた。ときおりたずねてくる大和屋の両親たちも、ここを出るとき、いつも泣きはらしたような目もとをしている。 「さあ、さあ、お町さま、もうおやすみにならなければいけませんよ。お人形あそびはまたあした」 「いや、いや、あたいはもうすこしこのお人形とあそぶのよ。おもんはなにかというと寝んね、寝んねというんだもん、お町、だいきらい」 「またあんなことおっしゃって。そうそう、あんまり夜ふかししていると、ほら、また、てんぐがさらいにきますよ。それに、今夜はおもんとお町さまのふたりきりですからね」 「あれえッ!」  と、おもんにしがみついたお町は、 「おもん、怖いよう!」 「それ、ごらんなさいまし。それですから、はやくお寝んねするんですよ」 「お寝んねすると、てんぐは来ないの」 「そうですとも、お寝んねする子はよい子ですから、だれもさらいにきやあしません。ほら、ほら、てんぐさん、お町さんはお寝んねですからね。さらいに来ちゃいけませんよ。しっ、しっ、てんぐさん、むこうへいきなさい」 「しっ、しっ、てんぐさん、むこうへいって!」  おもんにだましすかされて、やっと寝間着に着かえたお町は、ふんわりとした絹夜具のなかにもぐりこむと、 「おもん、あたいが寝んねするまでそこにいてえ」 「ええ、ええ、ここにおりますとも。さあ、ちゃんとお寝んねなさいまし」 「あい、あい」  幼児どうぜんのたわいなさで、お町は目をとじたかとおもうと、もうすうすうとやすらかな寝息である。  春の夜のやみはあやなし梅の花、色こそみえね香やはかくるる、と、古歌にもあるとおり、寮の庭に植えた梅の花の、ふくいくとにおうのが、いっそう夜のしずけさを思わせるのだが、色こそみえね香やはかくるる……おもんはその意味に気づいたかどうか。  おもんはそっと、その夜着ののえりをたたくと、行灯《あんどん》の灯をくらくし、そで口を目にあてながら、すべるようにつぎの部屋へしりぞいたが、そのとたんにまっ黒なものが、おもんの頭からおっかぶさってきた。 「あっ、なにをする!」  声を立てようとしたが、大きな手が黒い布のうえから口をおさえたかとおもうと、すばやくさるぐつわをはめてしまった。  くせ者はどうやらふたり、あるいは三人らしい。  ひとりががっきりおもんの体を羽がいじめにすると、もうひとりが声をひそめて、 「さ、さ、このまにはよう……」 「う、うん」  ひくい声でこたえると、ひとりがすばやくお町の寝室へすべりこんだ。  お町のまくらもとには、二枚折りのびょうぶが立ててあり、そのびょうぶのなかから、すこやかな寝息がきこえている。おもんが暗くしていった行灯の芯《しん》が、ジージーとかすかな音を立てていた。  くせ者は犬のように四つんばいになり、ジリジリとお町のほうへはっていく。  黒いもも引きにくろい足袋、黒い筒そでをしりはしょって、くろいほおかむりのしたからのぞいている目が、みだらな情欲にかがやいている。ずんぐりむっくりとした猪首《いくび》の男で、上背は五尺一、二寸というところだが、肩幅のひろい、たくましい筋骨をしている。  二枚折りのびょうぶのそばまではいよって、くせ者はそっとお町の顔をのぞきこんだ。お町は寒いのか、鼻のうえまで布団をかぶっている。うす暗い行灯の灯で、お町の額のあたりをのぞきこみながら、 「なアんだ。これゃまだ小娘じゃないか」  口のうちでつぶやきながら、くせ者はふところから細ひもをとりだした。そのひもをぴいんとしごくと、こんどは妙なことをやりはじめた。黒いもも引きのひもをほどいて、それをひざのへんまでずらしたので、あとはたくましい太|股《また》にふんどしだけ。そのふんどしはふとい帆柱にささえられて、勢いよく突っ立っている。  わかった、わかった。  くせ者はお蝶やお藤にくわえたとおなじような暴行を、お町にもくわえようとしているのだ。犯しながら絞めころすか、絞めころしてから犯す気なのだ。一種残忍な欲情で、くせ者のむきだしになった下半身が、もえにもえていることを、ほの暗い行灯の灯がしめしている。  くせ者は両手で細ひもをしごくと、やおら布団のうえからお町のうえに馬乗りになった。そして、じゃまになる布団をのどのところまでめくったが、とたんに、くせ者はぎょっとしたようにひとみをすぼめた。ほの暗い行灯の灯で、お町の顔を見なおしたが、 「わっ、わ、わ、われゃお力!」  のけぞるような声に、となりの部屋から、 「せがれ、どうした、どうした。はやいとこやっちまわねえか」  これまた黒装束に黒いほおかむりをした男が顔を出したが、そのとたん、いままで、眠っているとばかりおもわれた小娘がいきなりがばとはねおきると、 「姉ちゃんの敵!」  とばかり、股間《こかん》の急所にむしゃぶりついたから、これではくせ者もひとたまりもない。なにしろ、早手まわしに武装をといて無防備地帯、そこを力いっぱい握りしめられたのだから、ううんとうめいて、ひっくりかえったのはだらしがなかった。 「あっ、なにをする!」  おもんを取っておさえていたふたりのくせ者が、つぎの間からこのようすを見て、こちらへはいってこようとするその鼻先へ、 「勘右衛門、お六、御用だ」  押し入れからとび出してきたのは、人形佐七と漁師の吉蔵。 「あっ」  とさけんで、黒装束のふたりが、身をひるがえして逃げようとするその鼻先へ立ちはだかったのが辰と豆六。 「勘右衛門、御用だ、神妙にしろ」 「お六、御用や、神妙にしくされや」  勘右衛門とお六はそうとう抵抗したが、もちろん血気ざかりの辰と豆六に歯が立つはずはない。またたくまにお縄をちょうだいしてしまった。そこへとびこんできた人形佐七。  勘右衛門とお六に黒い布をおっかぶされ、がんじがらめに縛られて、そこにもがもがやっている女のいましめを解いてやると、手ばやく黒い布を頭からとりのぞけ、 「お粂、だいじょうぶか、けがはねえか」  意外にも、おもんに化けていたのは、佐七の女房お粂であった。 「あいよ。わたしはだいじょうぶだが、お力ちゃんはどうおしだえ。まさか、まちがいはなかったろうね」 「あっはっは、あの娘はだいじょうぶ、あれゃたいしたあまっこになるぜ。まあ、こっちへきてみねえ」  吉蔵が行灯の灯をあかるくして待っているとなりの部屋へはいっていくと、ずんぐりむっくりのくせ者は、下半身まるだしのあさましいかっこうで、あおむけざまにひっくりかえって、気をうしなっているのはだらしがない。 「ああ、お力坊、お手柄、お手柄。ときに、吉蔵さん」 「はい」  漁師の吉蔵はお力をいたわりながら、神妙にそこにひかえていた。お町に化けていたお藤の妹のお力は、おもわずやってのけた手荒なまねに、いまさらきまりが悪いのか、恥ずかしそうにまっ赤になってうなだれている。 「そこにいるのは、おまえにとっても女房と子どもの敵だ。ほおかむりをとって、よくつらをあらためてやんなせえ」 「親分、ありがとうございます」  吉蔵がくろいほおかむりをむしりとると、そのしたからあらわれたのは、いうまでもなく伊豆綿屋のせがれ勘六の脂ぎったニキビづらだった。  伊豆綿屋親子夫婦三人の、この悪業がしれわたったとき、世間ではその鬼畜性におどろかぬものはなかった。  お藤は伊豆綿屋と話がきまったのちに、じぶんが吉蔵のタネを宿していることに気がついた。しかし、気のよわいお藤は、だれにもそれを打ちあけることができなかった。ところが、祝言の朝、吉蔵がぶじにかえってくるにおよんで、お藤も決心した。  とにかく、いちおう祝言はしよう。そして、そのあとで勘六にばんじをうちあけ、お暇をもらおう。支度金のほうは身を粉にしてはたらいても払いもどそうと思ったのである。  いや、思ったのみならず、そのとおり実行した。おくの離れで勘六とさしむかいになったとき、お藤は涙ながらに両手をついて、許しをこうたのである。  しかし、勘六は許さなかった。かれはむりやりに、寝床のなかへお藤をひっぱりこむと、これを犯した。いや、犯したとはいえないかもしれない。祝言の杯もすんでいるのだから、夫としてのとうぜんの権利を行使したのかもしれない。  しかし、そのあとがいけなかった。  お藤が泣いて許しをこえばこうほど、勘六の血はたぎりたった。また、勘六はうすのろとくゆうの、絶大な欲情のもちぬしだった。怒りがその欲情を、いっそうつよくもえあがらせた。お藤の体に、あらんかぎりの暴行をくわえていたが、そのうちに気がつくと、お藤はうごかなくなっていた。  怒りと激情のあまり、お藤をひもでしめころしてしまったのである。  おどろいたのは伊豆綿屋の夫婦だ。いったん、お藤の死体を床のしたにかくしておいて、ちかごろはやりの、花嫁ご寮の神かくしと触れておいたが、いつまでも床のしたに死体をかくしておくわけにもいかぬ。  そこで思いついたのが、神かくしにあった花嫁は、つぎからつぎへところされるという手である。  伊豆綿屋では、まえの関係から、きさらぎ屋のお蝶が江戸へもどっていることをしっていた。  そのお蝶をことばたくみに欺いて、とある古寺へつれこんだのはお六だった。  それをさんざんもてあそんだあげく、絞めころしたのは勘六だった。そして、その死体を葦《あし》の浮き州へはこんでいったのは、おやじの勘右衛門だったというのだから、江戸じゅうのひとが、この親子の鬼畜性に舌をまいておどろいたのもむりはない。  ところが、佐七がまんまとその手にのったと思ったかれらは、もうひとり、神かくしにあったお町があらわれるにおよんで、これを犯したあげく、ころすことによって、いよいよ疑いの目をほかにそらせようというわけだった。  大和屋のお町も、神かくしにあったわけではなく、いったんきまった縁談のことわりにくく、伊勢の松坂の親戚《しんせき》へあずけられて、いまでもそちらにいるのである。そして、佐七の請いをいれて、大和屋ではこんどの試みにこころよく力をかしてくれたのであった。 「それにしても、親分、伊豆綿屋の親子が、親分の手にのったからいいようなものの、もしのらなかったら、どうするつもりだったんです」  と、きんちゃくの辰がたずねると、 「いや、きっとのると思ったんだ。因業は因業だが、あんまり頭のよくねえ連中だとおもったからな」 「といやはると……?」 「お藤を長襦袢《ながじゅばん》のままにしておいたことよ。あそこはどうしても、着物をきせておかなきゃいけねえ。たとえ神かくしにあったにしろ、長襦袢いちまいじゃ、ひとあしも外は歩けねえどうりだ。ところが、その着物いちまいが惜しかったんだな」  吉蔵は、お藤が身重になっていることを知っていた。だから、せっぱつまって身投げをしたのではないかと、川筋をあさっていて、お蝶の死体を発見したのである。  伊豆綿屋の三人はもちろん極刑だったが、さてその身代である。伊豆綿屋にはこれという身寄りもなかった。そこへもってきて、お藤は勘六と祝言の杯もしたうえ、むりむたいとはいえ勘六に身をまかせている。とすれば、りっぱに勘六の嫁であるというところから、身代ぜんぶ、嫁の里方、すなわちお近親子にさげわたされたが、これは名さばきであると、その当時ひょうばんだった。  吉蔵はその後坊主になった。また、忠七はあらためてきさらぎ屋に奉公することになった。そして、佐七の請いで、このきさらぎ屋と大和屋が、お近親子を後見することになったという。     吉様まいる  情夫の名   ——名乗って出たのが三人あります  佐七も商売がら、おりおり妙な事件をもちこまれることがあるが、その日もちこまれた一件ほど、へんてこな捜索を頼まれたのははじめてだった。  そもそも、この一件をもちこんできたのは、紅殻屋伊左衛門《べんがらやいざえもん》といって、日本橋通三丁目に漆器塗り物の店をもっている江戸でも屈指の大だんなだが、その伊左衛門が三月なかごろ、みずから出向いてきて、涙ながらに語るところを聞けばこうである。 「ほんとにかわいそうなことをいたしました。それほど娘が思いこんだ男なら、たとえあいてが非人こじきでも、夫婦にしてやりましたのに、いまとなってはかえらぬ繰りごと。せめては娘のわすれがたみ吉太郎を、りっぱに育てて店を譲りたいと思いますが、なにをいうにもわたしもこのとし、吉太郎が成人するまで生きていられるやら、それを思うと心細くて……」  年寄りのつねとして、愚痴ばかり多いその話を、そのまま写していてはきりがないから、かいつまんでお話するとこうである。  伊左衛門夫婦にはお七という娘があった。  お七は夫婦が老境に入ってからできた子どもで、あとにもさきにも、たったひとりのひと粒種。されば、伊左衛門夫婦が、このお七をかわいがることといったら、古いことばだが、掌中の玉とばかり愛《め》でいつくしんできたかいあって、お七もことしはや十七。さいわい虫の気もなく育って、照りかがやくばかりの美しい娘となったから、夫婦の喜びたとえようもない。  一日もはやくよい婿とって、初孫の顔を見たいばかりに、去年のうちから婿選びによねんがなかったが、そのうちに大変なことが起こった。  去年の秋のはじめころから、お七が妙に酸っぱいものを好むようだと思っていると、だんだんおなかがせり出してきて、まぎれもなく妊娠——とわかったときの夫婦のおどろき、怒り、嘆きは、ことあたらしく申すまでもあるまい。 「あまりのおどろきに、そのときつい取りのぼせまして、お七をつよく責めすぎたのがいけなかったので、元来が気のよわい娘でしたから、おびえきってどうしても男の名をいおうといたしません。そのうちにおなかのほうが容赦なくせり出してまいります。世間体もありますので、お袖《そで》という気にいりの女中をつけて、小梅の寮へやりましたが……」  その寮で、お七は十日ばかりまえに、玉のような男の子を産んだが、産後の肥立ちがわるく、桃の節句をまえにして、それから三日目に死んだのである。 「へえ、それはまたご愁傷さまでございます」 「はい、ありがとうございます」 「そして、お七さまのそのあいて、つまり赤ちゃんの父御《ててご》というのは……?」 「それがわからないのでございます。お七はとうとうなにもいわずに……」  と、伊左衛門がいまさらのように泣きむせんだから、佐七をはじめ辰に豆六、さてはお粂まで、おもわず顔を見合わせた。 「はじめにつよく責め問うたのがいけなかったのでございます。うまれてから十七年、わたしの怒り顔をみたことのない娘は、それがよほど胸にこたえたのでございましょう。もしも男の名を明かしたら、わたしがどうかするとでも思ったのでしょう。その後、手をかえ品をかえ、しまいにはきっと夫婦にしてやるからと申しましても、ただ泣くばかりで……」  ついに秘密を抱いたまま、お七は、はかなくあの世へ旅立ったというのである。 「それはまたとんだことで……しかし、お七さまの口からおっしゃらずとも、見当ぐらいつきそうなもの。親御様にはわからずとも、奉公人などは案外そんなことをよくしっているものでございますが……」 「ところが、よほどうまく首尾をしていたとみえ、店のものは申すにおよばず、奥でもみんな心当たりがないと申しますので……知っているとすればお袖ですが、そのお袖でさえ、まったく知らぬと申します。ところが……」 「ところが……?」 「ここにただひとつ、それを知るよすがになろうかと思われるのは、これ、この手紙でございます。これはお七が死にましてから、まくらの下から出てきたのですが、亡くなるまえの日あたりに、お七が書いたらしいのでございます」  と、伊左衛門が出してみせた手紙というのは—— [#ここから2字下げ] ひと筆かきのこしまいらせ候。このたび産後のわずらい、とても本復おぼつかなく存じられ候まま、書きのこし申し候。じゃけんな父さんにへだてられ、その後のおうせかなわず、恋しくすごしそうらえども、うまれし子供はそもじ様の、おんたねにちがいこれなく候まま、なにとぞなにとぞ、ゆく末おたのみ申し上げまいらせ候。名前の儀はつねづね語りあい候ときの、そもじ様のおん名にちなみ吉太郎とつけ申し候まま、吉太郎のゆく末、くれぐれもお願い申し上げ候、かしこ  お七より  吉様まいる [#ここで字下げ終わり] 「なるほど……しかし、だんな、こういうものがあれば、およそ見当がつきそうなものではございませんか。吉という字のつく男……」 「ところが、親分、それがいけませんので。こっそり詮議《せんぎ》をすればよかったものを、ついはやまって通夜の席で、わたしがこの手紙のことを披露《ひろう》したのでございます。それのみならず、そのあとで、お七はなくともこの吉様、孫吉太郎の父にちがいないゆえ、養子にむかえてゆくゆくは吉太郎の後見を託したい……と、こういうことをつい漏らしたのでございます。そういたしますと……」 「そういたしますと……」 「さっそくつぎの日になって、われこそ吉様と、名乗って出たものがあるのはよろしゅうございますが、それがひとりならずふたり三人……」  伊左衛門がほっとため息をついたから、これには、一同あっとばかりにおどろいた。  三人吉様   ——世にも変な一件を背負いこんで  佐七はにわかにひざをすすめて、 「そして、その三人といいますのは……」 「まずさいしょに名乗ってでたのが、雷門前の鱗形屋《うろこがたや》という絵草紙屋の三男で、吉松という若者」 「なるほど、吉の字がつきますね」 「この鱗形屋というのは、もとは縁つづきになっておりますし、それにお七は、まことに絵草紙の好きな娘でございましたから、観音様へのお参りのせつなど、よく立ち寄っていたようでございます。それでついねんごろになった、と、こう吉松は申すのでございます」 「なアるほど、筋はとおっておりますね」 「はい、いちおうは、もっともらしくみえます。ところが、この吉松と申しますのが、親でさえももてあましているほどの、放蕩無頼《ほうとうぶらい》の若者で、お七などもつねづね怖がっておりましたほどですから、それと契るというのは少し……」 「しかし、だんな、ものはとりようで、そういう放蕩者だから、お七さまをくどきおとすか、あるいはまた、むりやり手込めにしたとも思われますね。生娘というものは、手込めでもなんでも、いちど男にそんなことされると……」 「はい、わたしもそれを考えました。それですから、半信半疑ながら、むげにもはねつけるわけにもいかず、当惑しておりますところへ、またぞろ、第二の吉様があらわれたのでございます」 「して、その第二の吉様というのは……」 「これは同町内に住んでいる金子|吉之丞《きちのじょう》という謡の師匠でございます」 「吉之丞——なるほど。浪人者ですね」 「さようで。としは三十前後でございますが、色の白い、ちょっとすごみなよい男振りでございます。これが去年の夏ごろから、お七といい交わしていたお七の書きおきにある吉様とはすなわちじぶんであると、こう申し立てるのでございますが、このほうには証人まであるので……」 「証人と申しますと……」 「常磐津《ときわず》の女師匠で文字房という、これも同町内のものでございますが、お七もひところ、この文字房のところへけいこにかよっておりました。ところが、その後、文字房という女には、いろいろよくないうわさがございますので、やめさせましたが、まだけいこにかよっているじぶん、お七のほうからたのまれて、吉之丞さんをお取り持ちした。お七のいいひととは、この金子さんにちがいないと、そう文字房がいい張るのでございます」 「なるほど」  佐七はだんだんおもしろくなってきた。ずいとひざをすすめると、 「そして、もうひとりの吉様というのは……」 「それがまた、とほうもない話で、宅の一番番頭の吉兵衛《きちべえ》なのでございます」  佐七は辰や豆六と顔見合わせて、 「一番番頭と申しますと、もうそうとうのとしでございましょうが」 「はい、吉兵衛はことし厄《やく》の四十二、それがお七の男だと名乗って出たものでございますから、わたしゃもう腹が立つやら、情けないやら」 「なるほど、吉兵衛さんなら吉がつく。それに、としのちがいといっても、このみちばかりはまた格別、お半長右衛門《はんちょうえもん》のためしもあります」 「はい、吉兵衛もそう申すのでございます。あれのいうのに、去年、お七は江の島見物にまいりましたが、そのせつ女ばかりは不安だし、といって若い者はつけられず、そこで吉兵衛をつけてやったのでございます。ところが、江の島の宿についた晩、ひどい大雷で、お七が吉兵衛の蚊帳へ逃げこんでまいりましたそうで、そこでつい、手がさわり、足が触れ……」 「なんや、そら、お半長右衛門の浄瑠璃《じょうるり》やおまへんか」 「はい。吉兵衛のやつ、帯屋の段を一段語って大のろけ、あげくの果てにはお七のいろはこの吉兵衛、紅殻屋の身代はじぶんのものだといきまきます。わたしはあきれはてて涙も出ません。情けないやら、あさましいやら……」  と、伊左衛門は思案投げ首の青息吐息だ。 「いったい、その吉兵衛さんというのは、日ごろはどういうかたでございます。おかみさんはないのでございますか」 「はい、吉兵衛は子飼いからの奉公人でございますが、これが、もういたっての堅物で、いままでどんなに勧めても、女房を持とうといいません。女房を持つと、勤めのほうがおろそかになる。それではご主人に申し訳がないと申しまして……それほど忠義者の吉兵衛が、どう狂ったのか、とんでもないことをいい出して、わたしはもう腹が立って、腹が立って……」  伊左衛門はとうとう手ばなしで泣き出した。かれがくやしがるのもむりはない。  はたからみればかなりこっけいな事件だが、当事者の身になれば、こっけいどころの騒ぎではない。  いかにかわいい娘の婿とて、いっときに三人も出てきちゃたいへんだ。しかも、この三人が三人とも、ひとりとして満足なやつはいないのだから情けない。  吉松は道楽者、吉之丞は素性のしれぬ浪人者、吉兵衛は死んだお七と親子ほどもとしのちがう奉公人、どれがほんとの吉様にしろ、紅殻屋の養子としては、ずいぶん外聞になりそうな連中ばかり。伊左衛門が思案にくれるのも、むりはなかった。 「とはいえ、わたしも男でございます。お七の通夜のまくらもとではっきりいったからには、きっとその男を養子にするつもりでございますが、三人も養子があっちゃアやりきれません。それで、おまえさんにお願いというのは、だれがほんとの吉様か、それを見定めていただきたいのでございます」  というわけで、佐七は世にもへんてこな一件を背負いこむことになったのである。  お袖駒太郎《そでこまたろう》   ——お粂《くめ》は吉之丞に弟子入りしろ 「どうだ、おまえたち。いったい、だれがほんとの吉様だと思う」  伊左衛門がかえったあとで、佐七はにやにや笑いながら、お粂や辰や豆六を振りかえった。 「そうさねえ。あたしゃやっぱり吉松だと思う。色っぽい絵草紙かなんかみせつけて、お七さんがぼうっとしているところをくどき落としたのさ」 「なるほど。辰、おまえはどうだ」 「あっしゃちがいますね。あっしの考えじゃ吉之丞だ。といってお七も、しょてから吉之丞にほれてたわけじゃねえ。こりゃきっと、文字房のやつが、筋を書きゃアがったにちがいありませんぜ。紅殻屋じゃ文字房の素行に難癖つけてお七をよさせた。こうなりゃだいじな弟子を失うばかりじゃねえ。外聞にもかかわりますからね。そこで、文字房がくやしがって、その返報にお七を傷物にするつもりで、吉之丞をけしかけて手込めどうよう、お七をものにしたにちがいねえ」 「なるほど、これもうがった見方だな。豆六、おまえはどうだ。だれがほんとうの吉様だと思う」 「わてはまた、おふたりともちがいまんな。わてのにらんだところでは、こら、やっぱり吉兵衛やな。つい手がさわり足が触れ……へっへっへ。操《あやつ》りでするとええとこや。やんがて長右衛門がお半を負うて、桂川《かつらがわ》連理のしがらみ、それにしても、吉兵衛のやつ、お七が死んだのに生きのこって、紅殻屋の身代横領しようとは、いけずうずうしいやつや。吉様ならお七が火あぶりになったあと、坊主になって遍国する」  豆六のいうことは、なにがなんだかわからない。  ひとの災難を、慰みの種にするわけではないが、なにしろあまり例のない事件だから、一同おもしろがって、しばらくわいわいいっていたが、そのうちに辰がひざをすすめて、 「しかし、親分、おまえさんの考えはどうなんで。吉松、吉兵衛、吉之丞、どれがほんとの吉様で……」 「そうよなあ。おれの考えは、もう少し伏せておこうよ。ときに、こんなところで評議をしていたってはじまらねえ。辰、豆六、おまえたちこれから出向いて、紅殻屋の奉公人を調べてこい。店に何人、奥に何人、どんなやつがいるかよくみてこい。とりわけ、お袖《そで》という女中だが、こいつによく注意してみろ」 「へえ、お袖がどうかいたしましたか」 「紅殻屋のだんなの話じゃ、お袖はお七のいちばんのお気にいりだったという。親にいわねえかくしごとでも、気にいりの女中などには、ずいぶん打ち明けるもんだ。それから、お粂」 「あら、おまえさん、わたしにも役がつくのかえ」 「すまねえが、おまえきょうから謡《うたい》のけいこをはじめてくれ」 「吉之丞の弟子入りをするのかえ」 「はっはっは、さすがは佐七の女房だ」 「のみ[#「のみ」に傍点]といえばつち[#「つち」に傍点]」 「カーといえばツーやな」 「ほっほっほ、からかわないでよ。しかし、おまえさん、このなりでいいのかえ」 「いや、それじゃいけねえ。雉子町《きじまち》へいって、損料を借りてこい。旗本のご後室様というふれこみだ。髪もついでに結いかえてきな」 「あいよ」  さあ、たいへんなことになったものだが、お粂もがんらい、こんなことが大好きなのである。それからまもなく、髪をあらため、借りてきた損料の衣装を一着におよぶと、なにがさて、その昔、吉原《よしわら》で全盛をうたわれた女だけあって、水の垂れそうなご後室様ができあがったから、さあ、辰と豆六が気をもんだのもまないのって。 「親分、いいんですかえ。こんななりで野放しにして、ねこにかつお節とはこのことだ」 「あいてはなにしろ、すごいようなええ男やいう話だっせ。あねさん、あんたが謡の手ほどきを受けるのんはよろしおまっけど、変な手ほどきを受けたらあきまへんで」 「ほっほっほ、どうだかわからないよ。それじゃおまえさん、いってきますよ。辰つぁん、豆さん、おまえさんたちは出かけないのかい」 「おっとしょ。それじゃあねさん、途中までいっしょにまいりましょう」  わいわい言いながら、三人いっしょに出かけていったが、さて、その晩かえってきた辰と豆六の報告によるとこうである。  紅殻屋には表に五人、奥に三人奉公人がいた。  表の五人は、一番番頭が吉兵衛で、その下にいる二番番頭の与兵衛《よへえ》というのは、これはもう女房も子供もあり、白木の横町に店借りして、かよいでお店を勤めている。その下に初三郎という手代がひとり、こいつはおりおり夜ぬけ出して、深川あたりになじみがあるらしい。  ほかに駒太郎《こまたろう》に亀吉《かめきち》という丁稚《でっち》がいるが、駒太郎は吉兵衛の甥《おい》だそうで、とって十七、亀吉は十三の、ともに前髪の小僧である。  表はこれだけで、奥のほうはまず筆頭がお寅《とら》という四十いくつかの大年増、伊左衛門の女房のお組が病気がちだから、これが家事取り締まりというかっこうである。  ほかのふたりは、お鉄という飯たきのばあさんに、女中のお袖。お袖はおかみさんの縁つづきにあたるとやらだが、ことし十八、ちょっとふめる器量である。 「なるほど、それじゃお七が寮へいくのに、お袖よりほかについていく者はなかったわけだな」 「へえ、そうなんで。もっとも、寮のほうには、弥助《やすけ》にお霜という年寄り夫婦がおりますがね」 「ところで、お店と寮とのあいだの使い走りは、だれがしていたんだ」 「それは丁稚の駒太郎がやっていたそうです。この駒太郎とお袖とは、お袖のほうが一つうえなんですが、ゆくゆくは夫婦と、だんなの取り持ちできまっているそうです。つまり、ふたりを夫婦にしてのれんをわけて、それへ吉兵衛をつけてやる。だんなのほうではそこまで考えていなさるのに、ふといやつは吉兵衛で……」 「お主の娘を傷物にして、あわよくばお店を乗っ取ろうちゅう言語道断な黒ねずみや」 「なるほど……ときに、お粂、おまえのほうはどうだえ」 「わたしのほうは、そう簡単にらちはあかないよ。しかし、ねえ、おまえさん。吉之丞と文字房とは、どうやらふつうの仲じゃないらしい」 「文字房がやってきたのか」 「ええ、けいこのさいちゅうに……ところが、文字房のやつ、わたしの姿をみると目に角立ててね、そりアやきもきするんだよ。わたしゃそれがおもしろかったから、いっそう吉之丞に色っぽくしてやると、こいつがまた、まんざらでもない顔色でね。すると、文字房がまたむこうでやきもき、ほっほっほ、ほんとにおまえさん、おもしろかったよ」  お粂はいかにもおもしろそうに、けろけろ笑っていたが、あぶない、あぶない、あまり調子に乗りすぎて、なにか間違いがなければよいが。  締め切り座敷   ——きょうはわたし酔いそうですよ  こうして、紅殻屋のようすもあらかたわかったし、吉之丞と文字房の仲も、だいたい想像されるのだが、さりとて佐七にもこの一件、どこから手をつけてよいかわからない。  なにしろ、かんじんのお七が死んでいるのだから、関係があったの、なかったのといったところで、しょせんは水かけ論である。ひょっとすると、三人とも関係がないのかもしれないし、また悪くとると、三人とも関係があったのかもしれなかった。そうなると、吉太郎がだれのタネだか、これは死んだお七にもわかるまい。 「仕方がねえ。まあ、気長にようすを見ていてやろうよ。辰、てめえはあすから吉兵衛を張っていろ。豆六は雷門前へ出向いて、絵草紙屋の吉松をさぐれ。それから、お粂はご苦労だが、いましばらく謡のけいこをつづけてくれ」 「あいよ、わたしもこのままじゃさがれないよ。もう少し、文字房のやつをじらしてやらなきゃ……」  これが女の意地というものか、お粂はむろん、吉之丞などに毛頭気のあるわけじゃなかったが、文字房が自分を目《もく》して、すわ強敵と、瞋恚《しんい》のほのおをもやしているのを感ずると、からかい気分も手伝って、それからのちは、いよいよめかしにめかし立てて、吉之丞のもとへかよっていたが、そのうちに、とうとうひと騒動持ちあがったのである。 「ご免くださいまし。おや、きょうはおけいこはお休みでございますかえ」  日本橋通裏三丁目の通り、浪人者の住まいとしてはこいきにできた金子吉之丞の浪宅へ別あつらえの駕籠《かご》をおろしたのは、いうまでもなく佐七の女房お粂だが、こってりとした厚化粧といい、紫色の被布《かつぎ》といい、さてはまた、少し長目に切って落とした髪といい、どうみても院号でもついていそうな女である。  旗本のご隠居なんのなにがしのおそば勤めをしていたが、ご隠居がおなくなりあそばしたについて、家屋敷、大枚の金子とともにおいとまが出て、いまでは気楽なひとり者の身分、名まえはお蓮というが、それ以上、くわしいことは打ち明けられぬというふれこみなのである。  ところが、吉之丞だが、どういうわけか、きょうは雨戸もあけず、奥のひと間でふてくされたように寝そべっていたが、お粂の声をききつけると、むっくりとかま首をもちあげた。  なるほど、いい男だ。  抜けるほど白い顔、ひげのそりあとが、藍《あい》をなすったように青々として、水髪の五分|月代《さかやき》。それに、きょうはいつもの素あわせに、博多《はかた》の帯を無造作にしめているのが、なんとなくなまめかしい。  ねそべっていたまくらもとをみると、一升徳利と茶わんがひとつころがっていて、吉之丞の目には赤い血の網が走っている。 「おお、これはお蓮どの、よくおいでなされた。さ、さ、お上がり下されい」 「でも、おけいこがお休みでは……」  お粂がまゆをひそめてためらってみせたが、そういう仕草にもあふれるような色気がある。 「ま、ま、よろしいではございませぬか。きょうはいささか、むしゃくしゃすることがあったゆえ、けいこは休みにいたしましたが、そなたなれば子細はない。さ、さ、お上がりなされというに」  上がりかまちまで立ってきて、手をとらんばかりのようすに、お粂はほほほと笑いながら、 「それでは、せっかく参ったのですから、ちょっとおじゃまをさせていただきましょうか。おけいこはこのつぎといたしましても……」  鷹揚《おうよう》にうえへあがると、被布をぬぎながら、 「まあ、暑いこと……」 「はっはっは、締め切りでは蒸しまする。雨戸をあけましょうか」 「さあ、どちらでも」  花のたよりもとっくに過ぎて、もうそろそろ苗売りの声もきかれようというきょうこのごろ。  お粂はいつものけいこ座敷にきっちり座ると、帯のあいだから扇子を出して、すましてあおいでいる。  ほの暗い座敷のなかに、お粂の水色の着付けと、白い顔がうきあがって、プーンとただようおしろいのにおい。吉之丞はごくりと生つばをのみこむと、へびのように目を光らせた。  お粂はそしらぬかおで、それとなく家のなかを見回しながら、 「お師匠様、それにしても、どうしてきょうは、おけいこをお休みあそばしたの。どこかお加減でもお悪いのではございませぬか」 「なに、ちと、不快なことがございましてな」 「ですから、そのご不快とおっしゃるのは……」 「なに、たわいのないことでござる」  と、吐き捨てるようにつぶやきながら、台所をごたごたいわせていたが、やがてお膳《ぜん》に酒肴《しゅこう》、案外ととのっているところをみると、ひょっとすれば、お粂のくるのを待っていたのではあるまいか。  お粂はわざとまゆをひそめて、 「あれ、そのようなことをなすっては……」 「とおっしゃるほどの物ではございませぬよ。男やもめにうじがわくと申しましてな、さ、さ、一献《いっこん》いかがでござる」 「あれ、よろしいんでございますの」 「なにが」 「このようなところを、いつものかたに見つかっては……それそれ、なんとかおっしゃった。文字……そうそう、文字房どの。どういうわけか、あのかたは、たいそうわたしをお憎しみ。もしこんなところを見つかっては……」 「なにがあんなやつ!」 「ほっほっほ、あんなことおっしゃって……ずいぶんきれいなかたではありませんか。ああいうかたを持ちながら、男やもめだなどと……ほっほっほ、お師匠様もずいぶんいい気なかたでございますことねえ」 「な、なにをバカな。それより、さ、さ、お重ねなされい、お蓮様。そもじはなかなかいける口とみえますな」 「あれ、いやですよ。そんなことおっしゃっちゃ……でも、考えてみると、文字房どのもお気の毒な身の上でございますね」 「ど、どうしてでござる」 「でも……世間のうわさでは、お師匠様はちかく、紅殻屋とやらへご養子にはいられるとやら。ああいう物堅い町家へはいれば、まさか文字房どののようなお女中を、お内裏にいれるわけにはまいりますまい。いずれはれっきとしたところから、かわいいお嫁さまがまいりましょう。あ、ああ、もっと早くこのことを聞いていたら、わたくしもこう、足しげくかようのではございませんでしたのに。それを思えば、かわいそうなのは文字房どのばかりではございませぬ。こういうわたしも……」 「ええ……?」 「きょうはわたくし……酔いそうですよ」  女というものはだれでも多少、心のおくに悪魔の魂を持っているものである。  お粂がこうして、吉之丞をもてあそんでいるのは、むろんかわいい亭主の佐七に手柄をさせたい一心だが、しかし、もうひとつ心のおくをのぞいてみたら、本質的な女の悪魔が、男をじらす快感を味わっているのではあるまいか。  だが、あぶない、あぶない、策を弄《ろう》するものは策におぼれる。  吉之丞の目が異様に血走って、息づかいがけだもののように荒くなったことに気がついて、お粂がはっと居住まいをなおしたときはおそかった。  それからまもなく、締めきった座敷のなかで、がちゃんともののぶっ倒れる音がすると、 「あれ……なにをなさいます」  と、押し殺したようなお粂のさけび。 「うそでござる。偽りでござる。お蓮どの。お七とわけがあったなどとはまっ赤なうそ。かつて文字房のやつが紅殻屋に恥をかかされた返報に、拙者をけしかけ、こんな狂言を仕組んだのでござる。紅殻屋などどうでもよい。文字房とはきょうけんか別れをいたした。されば……されば……お蓮どの……」 「あれ、あなた、なにを……無態な……」 「ええい、こうなったら腕ずくでも……」  薄暗い、むんむんするような座敷のなかから、男と女のもみ合う音と、はげしい息づかいが漏れてくる……。  ところが、ちょうどそのころ、べつのところで、また、ひと騒動持ちあがっていたのである。  吉松とお房   ——これじゃ棚からぼたもちみたいで 「うふふ、それでおまえ、牛を馬に乗り換えようというわけかえ」 「というわけじゃないが、あんまりくやしいから、寝返りをうつことにきめたのさ」  と、そういうふたりの男女をだれかとみれば、なんと、これが、絵草紙屋の吉松と常磐津文字房。そこは浅草奥山の、怪しげな茶屋の奥座敷で、ふたりとももうかなり酒がまわっている。 「だからさ、吉之丞のほうは、わたしの口ひとつでどうにでもなる。もともと、わたしがけしかけて仕組んだ筋なんだから。いままで申し上げたことはみんなうそでございました。お七さまと吉之丞がわけがあったなんてこと、まっかな偽りでございました……と、こうわたしが申し上げれば、あとはおまえさんのひとり天下さ。紅殻屋の身代は、おまえさんのひとりじめ……」 「ふっふっふ。そううまくいくか。吉之丞はそれで片づくとしても、まだあとに吉兵衛というやつがある」 「あんなやつ……だれがあんなやつのいうことを、まに受けるもんかね。紅殻屋のだんなだって、信用していなさりゃアしないんだよ。だけど、おまえさんのはほんとうだろうねえ」 「ほんとうって、なにがさ」 「お七とのことだよ。おまえさん、ほんとうにお七とわけがあったのかえ」  どこかまむしをおもわせるような文字房のひとみに、じっと射すくめられて、吉松はのっぺりとした薄手の顔に、さっと狼狽《ろうばい》のいろを浮かべた。 「そ、そりゃほんとうだとも。だれがうそなどいうものか」 「どうだか怪しいもんだわねえ」  文字房はくちびるのはしに、あざけるような薄笑いをうかべながら、 「考えてみると、お七のようなおとなしい生娘が、おまえのような札つきの道楽者の手に乗るはずがないからねえ。だけど……そんなことはどうでもいい。うそかまことかしらないけれど、おまえさんも乗りかかった舟だ。途中でよしちゃいけないよ」 「だけど、師匠……」  と、吉松はうすいくちびるで杯のはしをなめながら、 「おまえ、こうしておいらのうしろ立てをして、ゆくゆくどうするつもりなんだ」 「そりゃわかってるじゃないか。魚心あれば水心……」 「魚心あれば水心……というと」 「吉松つぁん、わたしそんなに捨てた女かえ」 「師匠……それじゃおまえ、このおれと……」 「吉松つぁん、わたしゃなにも紅殻屋のおかみさんになって、帳場のまえへすわりたいというんじゃないよ。だけど、紅殻屋ぐらいの身代を自由にできりゃ、お囲い者のひとりやふたりあったところで、世間じゃなにもいうまいじゃないか」 「ありがてえ、師匠、こいつはまるでたなからぼたもちというかっこうだ。ふふふ、師匠、もちっとこっちへ寄んねえよ」  と、あとはひそひそ、妙にしいんとしずまりかえったそのとなり座敷には、さっきからひとりぼっちで、つまらなそうに杯をなめている男がある。  豆六なのである。  探索もいいが、こんなときには、まことにつらいものである。それも、となりの座敷から話し声がきこえているうちはまだよかったが、それがばったり途絶えてしまって、妙にしいんとしてしまうと、さあ、豆六は気になってたまらない。  生つばをのみこみのみこみ、立ったり座ったり、畜生ッ、畜生ッ、いっそ踏みこんでやろうか……だが、いまのところふたりとも、これという罪状があるわけではない。恋の男女があいまい茶屋の奥座敷で、酒を飲もうが手を握ろうが、御用の口実にはなりかねる。  豆六がくやしがって、ひとりやきもきしているときである。だしぬけに廊下にあたって、ばたばたとひとの足音がしたと思うと、がらりと、となりのふすまをひらく音。あっと離れるふたりの気配……はてな、だれか飛び込んできたなと思ったしゅんかん、わっーとのけぞるような男の悲鳴。  人殺しだ……と、女のさけび。  さあ、こうなっちゃ十分御用の口実になる。 「御用や、御用や、神妙にしくされ」  豆六があいのふすまをおしひらいて飛びこんだ瞬間、廊下からまた躍りこんできたひとりの男が、 「御用だ、駒太郎《こまたろう》、神妙にしろ!」  そういう男をだれかとみれば、なんとこれがきんちゃくの辰。その辰五郎におさえられているのは、まだ前髪の丁稚姿《でっちすがた》、手に血に染まった刀をひっさげている。  吉松は土手っ腹をえぐられて、そばには文字房が、紙のようにまっさおになってふるえている。  そこで豆六、なにがなんだかわからぬなりに、あらためて声張りあげて、 「御用や! 御用や! 文字房も吉松も、どいつもこいつも御用や、御用や!」  ゆかりのおとずれ   ——吉様の正体がわかりましたよ 「と、そういうわけで、あっしが吉兵衛を見張っていると……」  と、それからまもなく、お玉が池の佐七の家では、きんちゃくの辰が口からあわをとばしてしゃべっていた。 「こっそり、裏木戸から抜け出したのがお袖駒太郎、その顔色がただごとじゃねえから、ふたりのあとをつけていくと、お袖のほうは吉之丞の家へしのんでいきました。だが、このほうはあねさんから聞いてください。あっしは駒太郎のほうをつけていったんですが、するとやっこさん、絵草紙屋のまえをうろうろ。やがて吉松が出てくると、そのあとをつけて奥山の茶屋へいったんです。そして、吉松と文字房が会っているところへ飛びこんで……それからあとは、さっきもお話ししたとおりでございます」  と、これが辰の話である。  お粂もそのあとにつづいて、 「わたしもあのときは驚いた。だしぬけにお袖さんが飛びこんできて、吉之丞を剃刀《かみそり》でえぐったんだから……でも、おかげでわたしは助かったんです。あのとき、お袖さんがきてくれなかったら、わたしは吉之丞のために、どんなことをされたかわかりゃしない。ほんとにあぶない瀬戸際だったんですよ。ねえ、おまえさん、どういう子細があるのかしらないけれど、お袖さんが罪にならないようにねえ」  そういうお粂や辰のまえに、しょんぼりうなだれているのはお袖駒太郎。佐七はにんまりふたりの顔を見比べながら、 「それで、手負いのほうはどうした」 「へえ、どっちも自身番へ預けてきました。なに、急所ははずれて、吉松も吉之丞もいたって薄手。死ぬ気づかいなんかありませんから大丈夫です。文字房のやつも、町内のものに預けてきました」  といっているところへ、豆六の案内で、どやどやとやってきたのは、紅殻屋のあるじ伊左衛門に、一番番頭の吉兵衛である。みちみち、豆六からいちぶしじゅうを聞いたとみえて、ふたりとも青くなってあわてていたが、佐七はにっこり振りかえると、 「だんな、ふたりをおしかりなさらないように……これもお店を思えばこそ。それから、だんな、お七様のいろ、吉様の正体がわかりましたよ。その吉様というのは、それ、そこにいる駒太郎さんでございますよ」  しょんぼりと首うなだれていたお袖駒太郎、それを聞くとはっと顔をあげたが、みるみる土色になっていくと、ふたりともふたたび畳に額をこすりつけた。  伊左衛門と吉兵衛はあきれかえって顔見合わせていたが、やがてふたりはひざをすすめると、 「しかし、親分、お七のかきおきには……」 「たしかに、吉様まいると書いてあったではございませんか」 「それはそうにちがいございませんが、それはあなたがたの読みかたが足りねえんでございます」 「と、おっしゃいますと……」 「あのかきおきには、こういう文句がございましたね。名前の儀はつねづね語りあい候ときの、そもじ様のおん名にちなみ……吉太郎と命名するとございました。あいてがほんとの吉様なら、なにも語りあい候ときのそもじ様のおん名……という文句はいらねえはず」 「あっ、なるほど」 「そこであっしゃ考えました。お七さまはじぶんの名前がお七だから、八百屋お七の狂言になぞらえて、恋のあいてを、芝居のお小姓|吉三《きちざ》に仕立てて、つねづね、吉さま、吉さまと呼んでいたんです」 「なるほど、なるほど、そうおっしゃれば……」 「とすると、お七さまの恋人は、ほんとは吉の字なんかついちゃいねえ……と。ところで、あのかきおきにはひとつ、こういう文句がございます。じゃけんな父さんにへだてられ、その後のおうせかなわず……と、この父さんにへだてられたというのは、寮へやられたことをいうんでしょうが、これがまたおかしいんじゃアございませんか」 「おかしいとおっしゃいますと……」 「あいてが吉之丞、吉松なら、ひとめのおおいお店より、寮のほうがよっぽど、おうせにつごうがよいはず」 「あっ、なるほど」 「だから、あいてはお店にいる。それも、吉兵衛さんのようにわりに自由の利くひとじゃアなく、もっと窮屈な身分、つまりまだ前髪の丁稚《でっち》じゃないか。お小姓吉三も前髪ですからね。とすると、駒太郎さんよりほかにいねえわけですし、それではじめてお袖さんが、お七さんの恋のあいてを知らぬ存ぜぬで押しとおしているわけもわかるわけです」 「と、おっしゃいますと……」 「だって、だんなはお七さまの恋のあいてを探して、紅殻屋の養子にしようとおっしゃる。そうなると、どこか大家からお嫁がくるにちがいない。つまり、じぶんは捨てられるにちがいないと、それが悲しかったから、いっさい知らぬ存ぜぬで通していた。駒太郎さんにしてみれば、物堅い叔父《おじ》の吉兵衛さんがなにより怖いから、これまただんまりでとおしている。しかし、吉松、吉之丞のような悪党があらわれちゃ、お店の難儀を見ているわけにゃいかねえ。そこで、ふたりで手分けして、吉松、吉之丞をほろぼして、いずれ心中でもする気だったにちがいございませんよ」  佐七の説明をきいているうちに、お袖駒太郎のふたりは、声をあげて泣き出した。  番頭の吉兵衛は両手をついて、 「だんな、申しわけございませぬ。憎いやつはこの駒太郎。そんなこととはつゆ知らず、わたしはまた、吉之丞か吉松か、ふたりのうちのどちらかが、お七さまのあいてだと思っておりました。しかし、どっちにしても、あんなやつが乗り込んできちゃ、紅殻屋の屋台骨はめちゃめちゃになる。そう思ったものですから、なんとかしてことをこんがらかそうと思い、年がいもなくあんなことを申し上げました。駒太郎同様このわたしをも、どうぞ存分にしてくださいまし」  涙をのむ吉兵衛の手を、しかし、伊左衛門はとって押しいただいた。 「吉兵衛どん、なにをいう。いつもながらのそなたの志、けっして悪くは思いませぬ。また、駒太郎なればうちの大黒柱吉兵衛どんの甥《おい》、紅殻屋の養子にしてもなに恥ずかしかろう。いままで黙っていたのがうらめしい。また、お袖、そなたも、なにも気づかうことはないぞ。そなたはうちの家内の縁のもの、約束どおり駒太郎と、きっと夫婦にしてあげる。そのかわり、みんなのものも、あの吉太郎の行く末を頼みまするぞ」  紅殻屋伊左衛門、そこでちょっと息をのんだが、やがて、晴れやかに佐七を振りかえると 「親分、このさばきはどうでございましょうね」  佐七はひざをうって、 「いや、けっこうでございますとも、吉様まいるゆかりのおとずれ——だんな、おめでとうございます」     お俊ざんげ  広小路すり騒ぎ   ——すったほうもすられた方もべっぴんだ 「すりだ、すりだ」 「なんだ、すりだと?」 「おお、べっぴんの女すりだ。まだ十七、八の、目のさめるようにきれいなすりだとよ」 「なに、べっぴんというのはすられたほうよ。それこそ、水のたれるようないい年増だというぜ」 「なんだ、それじゃ、すったほうも、すられたほうも女かい?」 「そうだって話だ。しかも、こいつが負けずおとらずのべっぴんだというぜ」 「そいつはおもしろい。それ、いってみろ」  と、いうようなわけで、上野の山下から広小路にかけて、はやいちめんのひとだかり。  物見高いは都のつねというが、なにしろこれが、いま花ざかりの上野のできごとだから、四方八方からかけつけてくる野次馬で、松坂屋のまえはたちまち人の山で埋まってしまった。 「親分、親分、どうやらすりがつかまったらしゅうございますぜ」 「それもべっぴんの女すりやいいまっせ。おもしろいさかい、ひとついってみたろやおまへんか」 「よせ、よせ、たかがしれたすり騒ぎ、こちとらの顔をだす幕じゃなさそうだ」 「いいじゃありませんか。親分、すったほうも、すられたほうもべっぴんだといいますから、どんなやつか見てやろうじゃありませんか。おや、豆六、あそこへいくのは海坊主の茂平次じゃねえか」 「あ、そやそや、海坊主や。さてはあいつが女すりをつかまえにかけつけよったんだっせ」  と、こういう三人連れを、いまさらどこのだれと説明するまでもあるまい。  神田お玉が池の名物男、人形佐七はこのところ、御用もひまなところから、きょうは辰と豆六をひきつれて、上野の花見としゃれこんだが、さて、そのかえるさにぶつかったのがこのすり騒ぎだ。  どうせ辰と豆六が、こういい出したからにはおさまらないのはわかっている。佐七はにが笑いをしながら、ふたりのあとからついていったが、こちらは海坊主の茂平次だ。  人がきをわってはいると、ふたりの女がにらみあったまま、負けずおとらずいい争っている。 「おや、おまえは、矢の倉のお幸さんじゃないか」  海坊主の茂平次はなじみとみえて、年増のほうの顔をみると、なれなれしく声をかけた。  お幸というのは、年のころ二十六、七、こってりとした女で、なりかたちをみると、芸者でなし、女郎でなし、といってかたぎの女房ではなおさらなし、さしずめお囲い者といった人柄だった。  お幸は茂平次の顔をみると、うれしそうにすりよって、 「あれ、鳥越の親分さん、よいところへ……あたしゃこんなくやしいことはない。この女があたしのものをすりながら、返せといえば悪態をつくんです。親分、この女の体を調べてください」  なんとなくべたべたとした口のききかたで、人によったらこういう女を好くものもあろうが、佐七はご免こうむりたいほうである。  海坊主の茂平次は、しかし、たちまち目じりをさげ、 「いいってことよ。お幸さん、おまえは黙っていねえ。いまにおいらがらちをあけてやるわ」  と、もうひとりのほうを振りかえると、 「おい、お俊、おまえ、また病が出やアがったな」 「おや、親分、それはなんのことですの」  お俊とよばれた女はしゃあしゃあしている。これはまだ十六、七の、ほんの小娘だが、もう二、三年もたつと、どんなすごいべっぴんになるだろうと思われるような女だ。 「おや、こいつ、白ばくれやがる。お俊、ここしばらくおとなしくしていると思っていたら、またぞろ病を出しゃがったな。なんでもいいから、きように臓物《ぞうもつ》を吐き出しちまえ」 「あれ、親分、そりゃごむりというもんですよ。あたしゃなんにも……」 「まあ、しらじらしい。親分さん。この女がすったにちがいないんです。わたしが松坂屋から出てくると、いきなり前からぶつかって……はっと思ってふところへ手をやると、もう紙入れがないんです」 「そりゃおまえが間抜けだからさ。おおかたどこかへ落としたんでしょうよ」 「まあ、憎らしいあのほおげた。親分さん、あいつを素っ裸にしてしらべてください」  お幸はいきり立って、いまにもつかみかかりそうなけんまく、これには海坊主も苦笑して、 「まあさ、いいからおれにまかせておきな。お俊、おれがこれほどいっても出さないのか」 「だって、親分、ない袖はふれませんもの」 「よし、そう強情はるなら、仕方がねえ。お俊、裸にして調べるがいいか」 「ええ、どうでも……あたしもこんなぬれぎぬをきせられちゃ、このままのめのめ帰れません。そのかわり、ねえさん、裸になってもなんにも出てこなかったら、おまえどうしてくれるねえ」 「お俊、なんでもいいから調べるぜ」 「あいよ、畜生ッ、おほえていろ」  じろりと年増をにらんだお俊の目のものすごさ。なかなかどうして、十六、七の小娘とは思えない。  お俊はくやしそうに歯ぎしりしながら、ちょっぴり帯をゆるめたが、出てきたのはきんちゃくがひとつと、ほかに小菊の懐紙がひと折。  お幸がすられたという紙入れらしいものは出てこなかった。 「さあ、親分、どこでも調べてくださいまし」  茂平次は手早くたもとのなかや、胸のあたりをさぐってみたが、やがて顔をしかめると、 「お幸さん、持っていねえようだ。おまえさんの思いちがいじゃないか」 「あれ、そんなはずは……たしかにこいつがすったにちがいない。それじゃ相すりに……」 「おや、まだそんなことをいっているのかい。人前でさんざ恥をかかしやがって、あたしゃくやしい。この返報にゃ、おまえを裸にしてやるから、覚悟をおし」  お俊はきりりと、柳眉《りゅうび》をさかだてると、いきなりあいてにおどりかかって、髷《まげ》の根をひっつかんだから、お幸もさっとまっさおになった。 「あれ、親分さん、助けてえ!」 「お俊、なにをする、放せ、放さないか」 「親分、あたしゃくやしい、おまえさんはえこひいきをするんですか」  と、お俊とお幸と茂平次が、三つどもえになってくんずほぐれつ。野次馬はおもしろがって、ワイワイこれを取り巻いていたが、そのときだった。むこうのほうで、 「かっぱらいだ、かっぱらいだ、さるのかっぱらいだ」  と叫ぶ声。  それを聞くと、お俊ははっと手をはなすと帯をしめ直しつつ、こそこそと、いずこともなく逃げていく。  口説の花の陰   ——銀さん、おまえこそ約束を忘れて 「辰、豆六、てめえいまの小娘を知っているか」 「へえ、知らねえでどうするもんですか。ありゃ十六夜《いざよい》お俊といって、名うての女すりです」 「そやそや、まだ肩揚げのとれんじぶんから、悪いことをおぼえよって、としに似合わんしたたか者や」 「ふむ、そのお俊が、さるのかっぱらいだと聞くなり、つかみあいをやめて逃げ出したのには、なにかわけがありそうだ。辰、豆六、ひとつあいつのあとをつけてみようじゃねえか」 「おっとしょ。そいつはおもしれえ」  雑踏のなかをぬいながら、三人がつけているとも知らぬお俊は、てばやく帯をしめると、ふと立ちどまったのは絵草紙屋のまえ。すり騒ぎからちった野次馬は、こんどはそのほうに集まっている。 「どうしたんです。なにかまたあったんですか」 「いえね、さっきこの屋根から、一匹のさるが、ひらりとおりてくると、いきなり店先につるしてあった、錦絵《にしきえ》を一枚かっぱらって逃げたそうです」 「へへえ、さるのかっぱらいとは珍しい。そして、そのさるはどうしました」 「それがね、錦絵をかっぱらうと、すぐまた屋根づたいに逃げ出したんです。ところが、そこへ、むこうからひとりの若者がやってきたと思いなさい。すると、屋根のうえから、ひらりとそのさるが、若者の肩へとびおりたのです」 「なるほど、それでその若者がさるをとりおさえたんですか」 「ところがおおちがい、若者は、さるをつれて、そのままどんどん逃げてしまったんです」  と、ワイワイ騒いでいるのをきいたお俊は、なにか心にうなずきながら、またすたすたと歩き出した。  佐七をはじめ辰と豆六は、これまた、見えがくれにつけていく。  やがて、お俊は三枚橋をわたって、上野の山へさしかかった。もうソロソロ日がかげってきたので、花見帰りがひきもきらない。お俊はだれかを探すように、あたりを見回しながら、やがて清水堂もすぎ、凌雲堂《りょううんどう》のそばまでくると、ふと立ちどまってむこうを見る。  すると、そのとき、咲きそろった桜の陰から立ちあがったのはひとりの若者。佐七をはじめ辰と豆六は、その姿をみるとおもわず顔を見合わせた。若者の肩にはちょこなんと小ざるがのっている。お俊はうれしそうにかけよって、 「銀さん、そこにいて?」  そういう声は、いかにも娘々して、さっきとはひとが変わったように、やさしさがあふれている。  佐七はそっとちかくの桜のかげに身をしのばせたが、お俊はもとよりそんなこととは知るよしもない。甘えるように、 「銀さん、どうしたの、なんでそんなにムッツリしているの。なにか気にさわったことがあって?」 「お俊さん」  若者の声は怒っているのか、少し語尾がふるえている。 「おまえはとんだことを、この次郎におしえてくれたねえ」 「だって……」 「だってもクソもあるものか。おまえいつかの約束を忘れたのか。これからさき、けっして悪いことはしないと、あんなにかたく誓っておきながら、さっきのすり騒ぎはどうしたのだえ」 「銀さん、堪忍してください。これにはわけのあることなんです」 「いいえ、その弁解はききたくもない。お俊さん、おまえのような恐ろしいひとはない。きょういちにち、次郎をかしてくれというものだから、なににするのかと思っていたら、恐ろしいすりの相棒……おまえ、次郎のもっているこの紙入れはどうしたのだえ」  佐七はそれを聞くと、辰や豆六と顔見合わせた。次郎というのはさるの名まえらしく、お俊はそのさるにすりとった紙入れをにぎらせて、いちはやく逃がしたものらしい。 「銀さん、堪忍しておくれ。そりゃ次郎ちゃんをこんなことにつかったのは悪かったけれど、これにはだんだんわけのあること。銀さん、その紙入れをこちらへ下さい」 「ええ、あげるとも、こんなけがらわしいものは持っていたくもない。ほんにおまえはこわいひとだ。さっき広小路へさしかかると、すりだ、すりだというさわぎ。もしやと思ってのぞいてみると、おまえの姿がちらりとみえたから、わたしは夢中で逃げ出した。すると、ふいに屋根のうえから次郎がとびおりてきたから、はっとして見ると、この紙入れと錦絵を持っている。わたしゃこんな怖い思いをしたことはない」  男が、そんなことをいっているあいだに、お俊は紙入れをひらいてなかを調べていたが、やがて、 「銀さん」  と、鋭い声でよびつけた。いままでとちがって、怒りに声がふるえている。 「なんだえ、お俊さん、なにをそんな怖い顔して、わたしをにらむのだ」 「銀さん、おまえというひとはなあ。あたしのことを、約束をやぶったとお責めだが、そういうおまえは、どうだえ。お幸様まいる、銀之助より……この手紙はいったいどうしたんだねえ」 「あっ!」 「銀さん、あたしがきょうすり取ったのはお幸のやつのだよ。あたしゃなにもお金が欲しかったのじゃない。ちかごろまた、おまえのようすが変だから、ひょっとするとお幸のやつと……そう思うと、あたしゃくやしくてたまらない。そこで、お幸をすってやったんだ。この紙入れは、お幸の紙入れだよ。その紙入れから出てきた手紙、お幸様まいる、銀之助より……ええ、もう、いやらしい。銀さん、おまえはなあ」  と、だいぶ風向きが変わってきたから、こちらで聞いてた人形佐七、はてな、と小首をかしげたが、そのうち、ふたりのせりあいはだんだん激しくなってくる。ほっておけばお俊のことだ、またなにをしでかすかしれたものじゃない。  そこで、佐七はぬっとふたりのあいだに割ってはいった。  嘆きの前科者   ——お幸のやつに深い恨みがあるんです  驚いたのはふたりだ。 「あっ、おまえは、お玉が池の親分さん」  お俊もやはり女である。恐ろしさより、恥ずかしいのがさきに立つとみえて、ぽっとほおをあからめた。男の胸倉をとっていた手をいそいで引いた。  佐七はにやにや笑いながら、 「お俊、えろう派手にやらかすじゃないか」 「まあ、親分、それじゃさっきからのようすを……」 「ふむ、のこらず見せてもらったよ。こちらは銀之助さんというんだね」 「はい」  銀之助はおどおどとふるえている。二十《はたち》前後の、みるからに気のよわそうな若者だった。 「お俊、おまえもいい度胸だな。ひとのものをすりながら、みとがめられると逆に因縁をつけて、かわいそうに、お幸という女は、顔にみみずばれができていたぜ」  お俊はいくらかあおざめたが、案外すなおに、 「すみません、あたしゃすっかり足を洗って、二度とあんなまねはしないつもりでしたが、あんまりくやしいもんだから……」 「はっはっは、それもいまのこらず聞いたが、いや、恋の遺恨ほど恐ろしいものはねえな」  佐七はふたりの顔を見くらべながら、 「ときに、お幸というあの女だが、ありゃどういう女だ」 「はい、あいつは矢の倉に住んでいるお囲い者なんです。だんなは金座の役人で、檜垣《ひがき》三十郎というんですが、それを……それをこのひとが……」  お俊はくやしそうに銀之助をにらんでいる。手にはまだあの手紙を握っていた。 「ふうん。つまり、銀之助さんがそのお囲い者に手を出したというわけか。そいつはいけねえ。かりにも主ある花に手を出しちゃ、そのままじゃすむめえ。ばれるととんだことになるぜ」 「それ、ごらんな。親分さんもああおっしゃる」 「いえ、あの、決してそんなわけじゃないので……わたしもあんまりくやしいものですから……親分さん、これを見てください」  銀之助が、右のそでをまくってみせると、そこには前科者の極印の墨が入っている。 「おお、それじゃおまえは……」 「はい、わたしがこんな体になったのも、みんなあいつのため。わたしはくやしくて、くやしくて……」  銀之助はもと日本橋の、大きな呉服店の手代だった。そこへ、たびたび買い物にきたのがお幸。そのじぶん、どこかのご後室様というようななりをしていたが、ある日銀之助は、そのお幸が恐ろしいことをするのをみた。店の油断をみすまして、すばやく反物を、被布《かつぎ》のしたにかくしたのである。  ほかの連中はだれひとり、それに気づいたものはなく、銀之助だけがそれを知っていたのが不幸のもと。かれはこっそり、お幸のあとをつけていった。  かれは冗談だろうと思った。ことばをつくして頼めば、きっとすなおに反物を返してくれると思っていた。そのころ、お幸は鐘撞《かねつき》新道に住んでいた。お幸が家のなかへはいるのを見て、あとから銀之助は案内をこうた。  そして……そして一刻《いっとき》ほどして、お幸の家から送り出されたときには、銀之助の体は、もはやもとの体ではなかった。 「それがつまずきのはじまりで、お幸のやつにたきつけられ、だんだん悪事の数をかさね、あげくのはてには佃《つくだ》送り、墨がはいって出てくると、お幸は矢の倉でお囲い者、訪ねていってもはなもひっかけません。わたしゃあまりくやしいものだから、ついうらみつらみを手紙に書いて……」  銀之助は男泣きに泣き出した。  それはべつにめずらしい話ではなく、銀之助のような気のよわい男が落ちていく、いわば月並みな悪の経路にすぎなかった。しかし、月並みだけにあわれも深かった。  佐七は、銀之助の横顔をながめていたが、やがてふとさるに目をやると、 「銀之助、このさるはどうしたんだ」 「はい、あの、これは……」  と、銀之助は涙のたまった目をおどおどさせながら、 「佃からかえって、本所の木賃宿にごろついておりますじぶん、いっしょにいたさる回しが死にましたので、わたしが引きとってやったので……」 「おまえ、このさるにかっぱらいを仕込んでいるんじゃあるまいな」 「滅相な、そ、そんなことが……」 「だってそこに錦絵をかっぱらってきているじゃねえか」 「ああ、これでございますか。親分さん、これにはかわいそうな話がございますので……見てくださいまし、これは敦盛《あつもり》の絵でございます」  なるほど、さるが抱いているのは、この春、半四郎があてた組み討ちの敦盛だった。 「ふむ、敦盛がどうかしたのか」 「はい、このさるはもと、さる芝居の太夫《たゆう》でございましたが、そのじぶん、こいつのおはこというのが組み討ちの熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》、そして敦盛を演じるのがこれのつれあいの雌ざるでございました。ところが、そのつれあいが死んだときには、こいつの嘆きは、はたの見る目もいじらしかったそうで。それからのちは、敦盛の絵姿さえみれば、あれ、あのとおりで……畜生ながらも、やっぱりあれが女房のおはこだったことがわかるとみえます」  なるほど、そういわれてみると、さるの次郎は、いかにも懐かしそうに敦盛にほおずりしている。これには佐七をはじめ辰も豆六も、おもわず奇異の目をみはった。 「よし、それじゃな、銀之助」 「はい」 「おまえ、お幸のことは、ぷっつりとあきらめろ。くやしいから仕返しをしようなどと考えるんじゃねえぞ。どうしてどうして、あいつはおまえなんどの手に合う女じゃねえ。それから、お俊」 「はい」 「さっききいてりゃ、おまえは二度と悪事をはたらかないと、銀之助に約束したそうだな。いい心がけだ。これからさきもその約束を忘れるな」 「あれ、親分さん、それじゃおまえわたしを……」 「はっはっ、なにをいやアがる。この佐七はまだ、おまえのような小娘をしばる縄は持たねえ。銀之助も後悔しているから、おまえもいいかげんに許してやれ。そして、仲よく暮らすんだぜ」 「親分さん」  お俊と銀之助のふたりは、べったりと桜の花びらのうえにひざをついた。  矢の倉の殺人騒ぎ   ——檜垣三十郎も行方がしれない  この事件は、これですんだことと思っていたが、じっさいはそうではなく、これこそつぎに起こるべき一大事件の前奏曲にすぎなかったのだ。  それからひと月ほどのちのこと。  照るともなく、曇るともなき物憂いある日の昼下がり、血相かえてお玉が池の佐七のところへかけつけてきたのは、思いがけなくお俊だった。 「親分さん、お助けくださいまし。お願いでございます。銀之助さんを助けてください」  と、佐七の顔をみるなり、お俊がわっと泣き出したから、これには佐七もめんくらった。 「だれかと思えばお俊じゃないか。だしぬけに、どうしたのだ。銀之助の身にまちがいがあったのか」 「はい、お幸がゆうべ殺されたんです。そして、下手人は銀之助にちがいないと、あの海坊主が……」  それを聞くなり佐七はぎっくり。二階で昼寝をしていた辰と豆六もおりてきた。 「お俊、そりゃほんとうか」 「ほんとうでございます。そのために矢の倉は大騒動で、だんなのゆくえもわからないそうです」  と、そこでお俊が語ったところによるとこうである。  矢の倉のお幸は、お源というばあやとふたりずまいで、そこへときどき、だんなの檜垣《ひがき》三十郎が忍んできた。  ゆうべもだんながくる晩だったが、お源は姪《めい》が急病だというので、ひと晩暇をもらって見舞いにいった。ところが、そのお源がけさかえってみると、座敷のなかは血だらけで、お幸がむざんに切り殺されている。  それから大騒ぎになったが、だんだん調べてみると、殺されたのはお幸ひとりではないらしい。というのは、くつぬぎには男物の雪駄《せった》がぬいであるし、衣桁《いこう》には唐桟《とうざん》の着物や博多《はかた》の帯がかかっている、いずれもお源に見おぼえのある檜垣三十郎のものだった。  してみると、ゆうべ三十郎がきたのだろうが、ふしぎにも姿がみえない。裸でかえるはずはないから、ひょっとするとその三十郎も……お幸の家は大川にむかっていて、座敷の雨戸をくればすぐしたは水だ。  しかも、けさお源がかえってきたころには、雨戸が一枚はずれていたから、下手人は三十郎をころして、その死骸《しがい》を川に流したのではあるまいか。——と、そういう疑いがおこるのももっともだった。 「ふむ、ふむ。しかし、それがどうして銀之助に疑いがかかったのだえ」 「はい、座敷のなかに血にそんださるの足跡や、てのひらの跡が、いちめんについているんだそうで……」  かつて、銀之助がさるをつれて、お幸を訪ねていったことを、ばあやのお源がおぼえていた。そのときふたりが大げんかをしたことや、いつかこの仕返しをしてやると、銀之助が口走ったこともお源ははなした。  のみならず、銀之助がうらみつらみを書きつらねた手紙も、お幸の手文庫から現れた。 「そこで、さきほど海坊主が踏みこんでまいりまして……」 「銀之助をつれていったのか」 「いえ、それが……あのひとは、きのう昼出ていったまま、いまもって帰ってまいりませんので……」  お俊はあおい顔してくちびるをかんだ。佐七はじっとその顔をみつめながら、 「お俊、なにもかくしちゃいけねえぜ。まさか、銀之助がやったんじゃあるまいね」 「そんなはずはございません」  お俊はきっぱりといい切った。  このあいだ佐七に意見されていらい、ふたりはぷっつり心をいれかえ、本所の業平町《なりひらちょう》に貧しいながらも家をもち、銀之助はさるを踊らせながらのあめ細工売り、お俊はお俊で、両国の並び茶屋へ出てまじめにかせいでいた。 「銀之助もあれっきり、お幸のことを忘れてくれたらしいので、わたしも喜んでおりました。そして、ひと月たって、どうやら所帯も板につき、ふたりとも落ち着いたと思っていたやさき、こんなことになって……」  泣きながらはなすお俊をみると、ひと月まえとすっかりかわっている。なりにも髪かたちにもかたぎになろうとする努力が、痛ましいほどにじみ出ている。  佐七はそれをみると哀れになった。 「ふむ、しかし、銀之助がゆうべから帰らないというのは少しまずいな。どこへいったか心当たりはねえか」 「はい、きのうも夕方、わたしの出ている両国の茶屋へ立ちよって、だんだん商売にもなれて、かせぎも多くなった、などといって喜んでおりましたのに……」  お俊のなげきを聞きながら、佐七はしきりになにか案じていたが、やがてきっぱりと、 「よし、お俊、この一件はおれがひきうけた」 「それじゃ、親分さんが……」 「ふむ、きっとらちをあけてやる。銀之助に罪のないものなら、きっとたすけてやる。そのかわり、お俊、おまえはよけいなまねをするな、万事おれにまかせておけ」 「親分さん、ありがとうございます」  お俊ははじめて、いくらか安心したような顔色だった。  恋慕ざる押し絵の羽子板   ——羽子板の裏からなにやら書類が  お俊をかえすと、佐七はすぐに辰と豆六をひきつれて、やってきたのはお幸の住まいだ。  奥へとおると、さっそくお幸の死体をあらためる。なるほど、ずたずたに切られたお幸の手や首には、たしかにさるのつめあとらしいのが残っている。  畳やふすまにも、紅葉のようなさるの手足のあとが、いちめんにベタベタとついている。  佐七は子細にそれをあらためると、こんどは縁側へ出て外をながめた。座敷のしたはすぐ大川で、黒くよどんだ水がひたひたと流れている。佐七はそれをながめていたが、 「なあ、辰、豆六、檜垣さんはほんとうに殺されて、ここから流されたのだろうかなあ」  と、なにやら考え込んでいたが、やがて、ばあやをふりかえると、 「ときに、ばあさん、お源さんというのはおまえだね」 「はい、わたしでございます」  お源というのは、こういう種類の女にありがちな、いかにも欲の深そうな女だ。 「おまえにちと尋ねてえが、ゆうべのうちにここの家から、なにかなくなってた物はないかえ」 「はい、さようでございます。さっき鳥越の親分さんからもお尋ねを受けましたので、よく調べてみましたが、そこにある羽子板が一枚なくなっておりますようで。そのほかは別になにも……」  みると長押《なげし》にはずらりと、色彩美しい押し絵の羽子板がならんでいるが、なかに一枚、歯の抜けたようにかけたところがある。それにしても、羽子板とは妙なうせものと、佐七は首をかしげながら、 「いったい、それゃアどんな羽子板だったえ」 「はい、たしか半四郎さんの、敦盛《あつもり》の似絵だったと思います」  佐七ははっと辰と豆六と顔見合わせた。  敦盛の羽子板——そうすると、やっぱりゆうべここへきたのは、銀之助とさるの次郎だったのだろう。  佐七は顔をくもらせて、 「ふむ、それじゃほかに盗まれたものはねえというんだな。よしよし、ときに、お源さん」  佐七は鋭い目でじっとあいてを見すえながら、 「お幸というのはどういう女だ。だんなひとりを守っていたか。かくし男はなかったかい」 「はい、あの、それが……」 「こう、こう、ばあさん、かくしちゃいけねえ。ありのまま申し上げちまえ」 「はい……それでは申し上げますが、お幸さんには巳之助《みのすけ》という遊び人がついておりまして、よくばくちのもとでをせびりにきていたようでございます」 「ふむ、巳之助というんだな。ひょっとすると、その野郎、ゆうべここへ来たんじゃあるまいか」  お源ははっとした顔色だったが、 「さあ……」  なかなかどうして、こいつひとすじなわでいくばばあじゃない。佐七はもっとしめあげようかと思ったが、あいての面魂をみると、きゅうに気をかえ、 「その巳之助のほかに、この家へ出入りしていたやつはないかえ」 「はい、あの石町の桔梗屋《ききょうや》さんと、室町の越前屋さんとがよくお見えになって、だんなとここで、なにやらこみいったご相談をしていらっしゃったことがございます」 「なに? なんだと? 石町の桔梗屋と、室町の越前屋が……?」  佐七がはっと目を光らせたのもむりはない。石町の桔梗屋、室町の越前屋というのは、どちらもひとに知られた両替屋だが、その商法にはいろいろいかがわしいふしがおおく、ご公儀からも内々札つきにされていた。  その札つきの両替屋と金座役人——そこになにかあやがあるのじゃなかろうかと、佐七は胸を躍らせたが、そんなことは色にもみせず、それからまもなく、矢の倉をあとにすると、やってきたのは業平町《なりひらちょう》。  お俊の家はすぐにわかった。  佐七の声を聞くと、お俊はおくから飛んで出たが、みると目に涙をいっぱいためている。 「おや、お俊、どうかしたのか」 「はい、あの……」 「こう、こう、お俊、かくしちゃいけねえ。あれから、なにかあったのか。銀之助からなにかいってきたのか」 「いいえ、あのひとからはなんのたよりもありませんが、さるの次郎が……」 「なに、次郎がどうした」 「さきほど、血だらけになって帰ってまいりまして……そして、羽子板を持っているのでございます」  三人はそれを聞くと、ぞっとしたように目を見合わせた。 「お俊、その羽子板というのは、もしや半四郎の敦盛では……」 「はい、さようでございます。親分さん、これをごらんください」  お俊がおくから持ってきたのは、うつくしい敦盛の押し絵の羽子板。これを次郎が持ってきたからには、やっぱりゆうべ、お幸の家に忍びこんだのは銀之助にちがいない。 「親分さん、あのひとは、どうしたのでしょうねえ。次郎がひとりかえってきたのは、ひょっとしたら身投げでもして……」  お俊が気をもむのももっともだ。佐七はとほうにくれた面持ちで、羽子板をいじっていたが、ふと気がつくと押し絵が少しはがれている。  佐七はなにげなく、その押し絵の裏をのぞいたが、ふいに、おやとまゆをひそめた。書画のようなものがみえるのだ。佐七はそれを取り出して開いたが、とたんにあっと顔色が変わった。 「辰、豆」 「へえ、へえ」 「てまえたち、これからもういちどお幸の家へいって、あすこにあった羽子板をすっかり引きあげてこい。だが、このことはだれにも知られちゃならねえぞ。お源にもかたく口止めしておけ」  そういう佐七の目の色は、にわかにいきいき輝いてきた。  お俊はなんとはなしにおどおどと、胸をふるわせていたのである。  生きているか三十郎   ——がらりと外れた佐七の確信  その夜、神崎甚五郎の屋敷では、甚五郎と佐七が額をあつめて密談にふけっていた。 「それじゃ、なにか、金座役人檜垣三十郎どのが、石町の桔梗屋や、室町の越前屋と結託して……」 「へえ、それに間違いございません。羽子板のうらから出てきた証文がなによりの証拠で」  ふたりのそばには十数本の羽子板が積んである。みんな押し絵をはがされて、この裏から出てきた書類を、佐七は興奮にふるえる手で開いている。  いちいち目を通すともうまちがいはない。檜垣三十郎の罪状歴然たるものがあった。 「ふむ、これはゆゆしき一大事だ。しかし、佐七、この三十郎どのというのは、ゆうべ、さる使いの銀之助というものに殺されたというではないか」  佐七はそれを聞くとひざをすすめて、 「だんな、檜垣さんはほんとうに殺されたのでございましょうか」 「な、なんと申す。さきほど鳥越の茂平次がまいっての話によれば……」 「さ、そこでございます。なるほど、家のようすをみると、檜垣さんは殺されたようにみえます。しかし、死骸《しがい》がみつからぬところをみると、檜垣さんは生きているのではございますまいか」  これには甚五郎もおどろいた。不審そうにまゆをひそめるのをみると、佐七はにっこり笑って、 「だんな、よく考えてごらんなさいまし。お幸というのはひとすじなわではいかぬ女、しかも、巳之助といううしろだてがついております。檜垣さんはこのお幸に、すっかり秘密を握られた。いや、それのみならず証拠の書類を隠されました。お幸はそれをたねにゆすりにかかる。これに困った檜垣さんが、はからずみつけたのが銀之助の手紙、奸知《かんち》にたけた檜垣さんはお幸を殺して、銀之助に罪をなすりつけようという魂胆。しかし、それでもまだ不安をかんじた檜垣さんは、じぶんも銀之助に殺された——いや、殺されかけたが、あやうく命は助かったと、そのうちにひょっこり出てくる魂胆じゃありますまいか。こうしてお幸の家の家財道具一式じぶんのほうへ引きとれば、いつか書類も捜し出せるどうりでございます」 「ふむ、それがじじつとすれば、じつに憎いやつだが、しかし、銀之助はどうしたのであろうな」 「さようで。あのさるが、お幸の家へ連れていかれたところをみると、銀之助は殺されたか、捕らわれの身となっているか……檜垣さんの魂胆では、さるをあの家におき去りにして、銀之助に疑いをかけるつもりだったのでしょうが、どっこい、あのさるの持ちだした羽子板のために、かえって大罪露見するとは、これも天命でございましょう」  いずれにしてもこれは天下の一大事だから、甚五郎はそれからまもなく、いそぎ町奉行所へ出頭すると委細言上、町奉行もおどろいて、このことを勘定奉行へ報告する。  そこで額をあつめて相談の結果、いよいよ両奉行所合体の大捕り物ということになったが、そのやさき、佐七の確信を根こそぎゆすぶる一大珍事が発見された。  佐七が生きていると確信してはばからなかった檜垣三十郎が、むざんな死体となって佃《つくだ》の沖で発見されたのである。八丁堀からの知らせによって、佐七がこれをしったのは、その翌日の朝まだき。  これには佐七もおどろいた。ぼうぜんとしてことばも出なかった。  しかし、そんなことをしておられぬので、辰と豆六を引きつれて、ただちに佃へ出張したが、わるいときには仕方がないもので、かんじんの死体はたったいま、檜垣の奥方、園江というのが引き取っていったというのである。  佐七はううむとうなって歯をくいしばったが、これをみてお家の一大事とばかり、あわてたのが辰と豆六。  そこらじゅうを駆けずりまわって、ようやく聞き出してきた情報によるとこうなのである。  三十郎の死体は、小舟にのせられ、佃の沖に漂流していたそうである。それをさいしょに発見したのは、夜づりに出ていた漁師で、その漁師の語るところによると、三十郎は素っ裸のまましばりあげられ、胸をぐさりとえぐられていたということである。 「ねえ、親分、そうすると、やっぱり下手人は、あの銀之助のやつでございましょうか」 「親分、しっかりしておくれやすや。ここでしくじると、あの海坊主に、またどんなにいばられるかわかりまへんがな」  辰と豆六は、すこぶる心細そうな面持ちである。佐七はいよいよ歯をくいしばって考え込んでいたが、ここで思案していてもはじまらない。  そこでふたりをひきつれて、やってきたのは常盤橋《ときわばし》の御門外、このへんずらりと金座役人の屋敷がならんでいる。  檜垣三十郎の屋敷もすぐわかったが、なにしろあいては武家屋敷のこと、表向きに調べるわけにはいかない。  こまりはてて、行きつもどりつしていたが、そのとき、豆六がふいに佐七のそでをひいた。 「あっ、親分、あそこにいるのはお源やおまへんか」 「なに、お源?」  佐七がぎょっとして、むこうをみると、濠端《ほりばた》の柳のかげにかくれているのは、まぎれもなく、お幸のばあや、あのお源にちがいなかった。  佐七はそれをみると、つかつかとそばへ立ちより、 「お源、妙なところで会ったなあ」  うしろから肩をたたかれて、お源ははっとして振りかえったが、佐七の顔をみるとそのまま逃げようとする。どっこいそうはさせじと、帯ぎわをとって引きもどした人形佐七、鋭い声で、 「お源、待ちねえ。おまえはあのお屋敷にどういう用事があるんだ。このうえかくし立てをしやがると、石を抱かせても白状ささずにおかねえぞ」  お源はもうだめだと思ったのか、白髪まじりの小鬢《こびん》をふるわせ、観念したように目を閉じた。  両奉行所大捕り物   ——際どいところで狂った筋書き  それからまもなく、近所のそば屋へつれこまれたお源が、包むによしなく白状したところによるとこうだったのだ。  きのうの朝、お幸の家へかえったお源は、押し入れのなかからタバコ入れをみつけた。  そのタバコ入れは見覚えのある巳之助のものだった。  そこで、お源は、ゆうべ巳之助が忍んできたことをさとった。おそらく、巳之助は、お幸に金をせびりにきたのだろうが、そこへ三十郎がやってきたので、あわてて押し入れへかくれたにちがいない。  お源がそれをしっていながら、いままでかくしていたのは、お源らしい魂胆があってのことで、それをたねに巳之助をゆすってやろうと思っていたのだ。 「それで、きょう巳之さんを訪ねてまいりますと、巳之さんのいうには、少し待ってくれ、おれも檜垣さんの奥方に買っていただくものがあると申しますので……」 「なに、檜垣さんの奥方に……」 「はい、それでいっしょにまいりまして、巳之さんがお屋敷にお伺いしているあいだ、わたしはあそこで待っていたのでございます」 「それじゃ、巳之助は檜垣さんのお屋敷にいるのか」  佐七ははっと、辰や豆六と顔見合わせた。 「そして、巳之助が奥方に売りつけようというのは、いったいどういうしろものだ」 「わたしはよく存じませんが、くしではないかと思います。ここへくる途中、金蒔絵《きんまきえ》のくしを落として、巳之さんは大あわてに隠しておりましたから……」  佐七はそれを聞くと、はや、すっくと立ち上がっていた。 「辰、豆六もこい」 「おっと、合点だ。それじゃ親分、下手人は檜垣さんの奥方ですか」 「なにもいうな。それより、気にかかるのは巳之助のこと。辰、豆六、いそげ」  三人は血相をかえてかけだしたが、はたせるかな、その巳之助は、身に数カ所の手傷を負うて、檜垣の屋敷から逃げ出したところを、うむをもいわせず辰と豆六に取りおさえられた。  このとき、佐七はなにを思ったのか、きっとばかりに檜垣の屋敷をふりかえると、 「神田お玉が池の佐七が、巳之助をたしかに召し捕ったぞ」  と、大音声に呼ばわったが、そのとたん、いままでざわめいていた屋敷のなかが、ぴたりと水を打ったように静まりかえった。  檜垣の奥方園江が自害して果てたのは、それから間もなくのことである。  さて、この物語もここまでだ。  その夜、両奉行所合体の大捕り物が行われたが、そのやりだまにあがったのは金座役人が数名、桔梗屋《ききょうや》九郎右衛門、越前屋勘十郎、辰巳屋《たつみや》利兵衛、いずれも江戸の大町人、そのために、いちじ市中はひっくりかえるような騒ぎだった。  かれらの罪状はおよそつぎのようなもので、金座役人という地位を利用して鋳造した不正小判を、江戸有数の両替屋へ流していたのである。  なにしろ、れっきとした金座の極印があるうえに、名うての両替屋から出るのだから、不正小判とはだれひとり気がつかない。こうして、かれらは何万両という金をもうけていたというのだから、なににしても近来の大事件だった。  ところが、お幸三十郎殺しだが、これはいつか佐七が甚五郎にいったとおりだったが、ただひとつ違っていたのは……。 「三十郎は、お幸のたびたびの無心にたまりかね、つい、そのことを奥方にうちあけたんでしょう」  一件落着ののち、佐七が甚五郎に語ったところによると、 「ここで園江さまは、はじめてだんなの秘密を知りましたが、そのとき、二重の憤りを感じたことでございましょう。欺かれた妻の怒りと、そんな女にゆすられている夫のふがいなさにたいする憤りと……そこで、万事の筋書きは、園江さまが書いたのでしょう。お幸を殺して、その罪を銀之助におっかぶせよう……これがあの女の魂胆でした。そこで、まずてはじめに銀之助をさるごと誘拐《ゆうかい》してきて、これを土蔵のなかへ押しこめました。そして、その夜、三十郎さんとふたりで、さるをつれてお幸の住所へおもむくと、まず三十郎さんにお幸を殺させ、さて、そのあとで、三十郎さんを裸にして、これを縛って舟の中へねかせました。いうまでもなく、これは三十郎さんに疑いのかからぬよう、夫婦なれあいでございましたが、さてここで、筋書きにないことがおこったんです」  佐七はまゆをひそめると、 「恐ろしいのは、嫉妬《しっと》にくるった女の心、園江さまは夫のあさましい姿をみると、きゅうに怒りがこみあげました。欺かれた妻の恨みが、むらむらと燃えあがりました。そこで、前後の分別もなく、かくし持った懐剣で、ぐさりとひと突き」  佐七はそこまで語ると、ほっとためいきを吐き出したのである。  さて、さいごに銀之助だが、これはふしぎに命がたすかった。捕り方の一行が檜垣の屋敷へのりこんだとき、銀之助は土蔵のなかで、半死半生になっていたが、それでもぶじに救い出された。  そのご、お俊と銀之助がふたりそろってお玉が池へ礼にきたとき、佐七はしみじみとこういった。 「銀之助もお俊も、こんなことで世間をうらんじゃいけねえぜ。天道様は見通しだ。まともに暮らしていりゃ、きっといいことがある」  それをきくと、お俊は涙ぐんだ目をあげて、 「親分さんのお言葉ですが、わたしたちのように、いったん道を踏み迷ったものは、どうしても世間さまがあいてにしてくれませぬ。ときどきわたしは、やけくそになってやろうかと思うことがございます」  佐七はそれを聞くと声をはげまし、 「バカ、そんな弱いことでどうする。きなきなせずに気を大きく持ってろ。いまにおいらが、きっとおまえたちの身の立つようにしてやる」  佐七はその約束を忘れなかった。  その後間もなく、蔵前の札差し浜松屋幸兵衛と、向島の料亭植半のおかみお近に、ふたりのことを頼んでやった。  幸兵衛とお近は、「鶴《つる》の千番」の事件以来、佐七にはひどく心服しているし、ともに侠気《おとこぎ》のある人物だから、一も二もなく引き受けて、りっぱにふたりの身の立つように面倒をみてやった。  銀之助はのちに、浜松屋の大番頭にまで成りあがって、お俊としあわせな家庭をつくったという。     比丘尼宿《びくにやど》  梅雨模様お玉が池   ——お地蔵さんでも抱いてねられては  ちかごろパンパンなどといういままでの商売往来にない商売ができて、ひどく世間をおどろかせているが、なに、これはただ名前がかわっただけのことで、あえておどろくにあたらないと、さる知ったかぶりの先生がいっているそうである。  その知ったかぶり先生のとくところによると、——  江戸時代にもパンパンはあった。  江戸のパン助、すなわちかくし売女《ばいた》には、ずいぶん種類があったそうで、なかでいちばん安直なのが夜鷹《よたか》、これは草をまくらにうわき男のご用命におうじようというのだから、むしろいちまいあれば稼業《かぎょう》がつとまるわけで、なるほど、安直なことも安直だが、そのかわり、江戸のパンパンのなかでも、いちばん下等な部類に属するのだろう。  その夜鷹のむこうをはって、下等なことにかけては兄たりがたく弟たりがたし……じゃなかった、女のことだから、姉たりがたく、妹たりがたしというのが舟饅頭《ふなまんじゅう》。  これは水のうえをかせぎ場にしていたものだそうで、なんでも隅田川《すみだがわ》のどこかをぐるりとひとまわりこいでいるあいだに、ご用を相勤めることになっていたというから、いやはや、水陸両々あいまって、江戸の色欲界はまことにハナバナしかったものらしい。  このほか、毛色のかわっているのが比丘尼宿《びくにやど》。  比丘尼宿とは読んで字のごとく、比丘尼をやしなっている宿のことだが、この比丘尼が売色するというのだから、いやはや、あきれたものである。  比丘尼とは尼さんのことだから、むろん髪の毛はそりこぼっている。頭をまるめた売女など、色気がなくて、商売にもなんにもならんだろう、などと思うとおおまちがい。  毛のないところが、風変わりでよろしいなどと称して、イカもの食い連中が、ワンサワンサとおしかけて、ひところは、比丘尼全盛時代を現出したというんだから、江戸の好色史もなかなかもって複雑怪奇である。  さきにのべた知ったかぶり先生の説によると、売色比丘尼とは、熊野《くまの》からでた勧進比丘尼のながれをくんだ歌比丘尼のなれのはてらしい。  はじめは地獄極楽の絵解きなどして、因果応報のおそろしさを説き、勧進に従事していたものが、いつのころかかくしおしろいにうす紅つけて、繻子《しゅす》か羽二重の投げ頭巾《ずきん》をかぶり、売色をこととするようになったのだそうだ。  さて、知ったかぶりはこれくらいにしておいて、 「ちょっと、おまえさん、なにをそんなにぼんやりしておいででございますえ。まだ、ゆうべのお比丘尼さんのことを考えておいででございますか」  ここは神田お玉が池の名物男、人形佐七のすまいだが、じめじめとした長梅雨のせいか、今夜ははなはだ天気晴朗ではない。  いったい、佐七の女房お粂というのは、日ごろいたって気さくな女だが、根が玄人あがりだけに、ヤキモチがまことにはげしい。  考えてみると、それもむりのないところで、亭主《ていしゅ》の佐七は、人形という異名があるくらいの男っ振り。そこへもってきて、捕り物にかけても名人だが、女にかけても人後におちない。  おりおりそのことで、とんでもないしくじりを演ずるから、お粂たるもの気が気じゃない。  これがやかずにいられよかというわけで、ときどき、ハナバナしいやつをぶっぱなすが、こんやは梅雨どきの空のごとく陰にこもって、ことばつきもていねいだから、さっきからとなりの部屋で鳴りをひそめていた辰と豆六、そうら、はじまったとばかり、首をちぢめてにやりにやり、ふたりとも悦にいっているのである。  いきなり、ハナバナしいやつをぶっぱなすときより、こういう出だしのほうが、ヤキモチもまたいっそう深刻であることを、従来の経験で辰と豆六、よく知っているのである。 「おまえさんのもの好きは、むかしからよウく承知しておりますが、まさかこれほどイカモノ食いとは存じませんでしたよ。あいてもあろうに比丘尼にうつつをぬかすとは……頭のまるいのがお気にめしますならば、お地蔵さんでも抱いてねられては、いかがでございますかえ」 「うっぷ、あねさん、いいことをいうぜ。お地蔵さんを抱いてねろってよ」 「うん、そらええけんど、親分、いったいどないしやはったんやろ。いつもならここらで、なによ、このあまからはじまって、売りことばに買いことば、畜生ッ、助平ッ、女たらしッ、あたしゃくやしいとくるじぶんやのんに、きょうは親分、えろう神妙にしてはるやおまえへんか」 「おおかた、脛《すね》にきずもつ身で、返すことばもねえんだろうよ。そうら、そろそろ、あねさんのことばつきが変わってきた」  悪いやつもあればあるもので、辰と豆六、となり座敷のいざこざを楽しみにしていると、はたせるかな、お粂の声が、しだいに巽《たつみ》あがりになってきた。 「ちょっと、おまえさん、なんとかおいいなさいよ。なんだい、その顔は、だらしのない。魂抜けてとぽとぽというかっこうじゃないか。いい男が、比丘尼にうつつをぬかしてふぬけになるとは……あたしゃくやしいッ」  どうやら、胸ぐらにとりついたらしいが、そのとたん、 「バカ野郎!」  と、佐七の雷。  そうらはじまったと、辰と豆六がよろこんでいると、 「ええ、バカですよ。どうせあたしはバカですよ。おまえさんのようなうわきもんにだまされて……あたしゃくやしいッ」 「こら、なにをする。はなせ、放さねえか。ヤキモチもいいかげんにしろ。身におぼえもねえことをやきたてて、みっともねえと思わねえのか」 「いいえ、身におぼえのないこととはいわせませんよ。あたしゃ辰つぁんや豆さんから、ちゃアんときいているんだから……あいてはお姫とかいうんですってね。頭こそ丸めているが、それこそ、ふるいつきたいほどいい女だって、それをおまえさんがにやにやしながら、手を握ったり、抱きよせたり……ええ、もう、あたしゃ腹が立つウ」 「バ、バ、バカ、おまえは辰や豆六にからかわれてるんだ。畜生ッ、辰に豆六め、おいらに夫婦げんかをさせて、さかなにしようというんだ。これ、お粂、放せったらはなさねえか、あっ、痛ッ、タ、タ、タ!」 「会いたいとはいったいだれに?」 「お姫のあまにもいちど会いてえ……キャッ」  さあ、たいへん、佐七が悲鳴をあげたところをみると、おおかたどこかへかみつかれたのだろう。あとは大騒動の大乱痴気。 「バカ、畜生、気ちがい!」 「助平ッ、女たらしッ、ボロッ買い!」  いやはや、いっとき梅雨空も吹っとびそうなハナバナしさだったが、そのうちにどこかで打ち出す鐘の音がゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン。 「やあ、あれゃもう四つ(午後十時)、これゃこうしてはいられねえ。お姫との約束の大川端。お粂、はなせ!」  むしゃぶりつく女房のお粂をつきとばした人形佐七が、血相かえてとび出してきたから、おどろいたのは辰と豆六。 「親分、いまじぶんから、どちらへ……?」 「ああ、うん、おらアちょっと出かけてくる。ゆうべお姫と約束したことがあるんだ」  と、そのままさっととび出したから、辰と豆六、あきれかえって目をパチクリ。奥の居間では女房のお粂が、 「あたしゃくやしいッ」  そもそも、こんやの大騒動の原因というのはこうである。  ゆうべ柳橋で、御用聞きなかまの顔つなぎがあったが、そのくずれにだれいうとなく、 「本所の石原にちかごろ、比丘尼宿《びくにやど》というのができたそうだが、ひとつ、ひやかしてみようじゃないか」 「よかろう」  ということになって、血の気のおおいのが五、六人、わっとばかりに押しだしたが、佐七も酒に酔うていたので、おもしろ半分、辰と豆六をつれて、ついその連中にくわわった。むろん、あいてはかくし売女のことだから、そうたくさんおいているわけのものではない。  十人も押しかけたところで、いちいち敵妓《あいかた》がつくはずもなく、押しかけたほうでも、それを承知のうえでのひやかしに過ぎなかった。  だから、比丘尼の顔をみて、あっさり飲んでかえってきただけのことなのだが、比丘尼のなかにひとり、すてきにいい女がいた。  名前をお姫といって十七、八、どこか品のあるしとやかな女で、比丘尼などにしておくのはもったいないような女であった。  そのお姫が、なんとなく、佐七にたいして意味ありげな目つきであったというようなことを、辰と豆六が尾ひれをつけて吹っこんだから、お粂はすっかりその手に乗ってしまったのである。  それにしても、おかしいのは、いまとび出すまぎわに、佐七の口走ったことばで、 「兄い、ひょうたんから駒《こま》ちゅうが、こら、親分、ほんまにお姫となにか約束しやはったんとちがうやろか。お姫との約束の大川端……とかなんとか、いうてはったな」 「だから、油断がならねえのよ。なんしろ、うちの親分ときたら、すばしっこいからね」 「あきれたア。そんなことと知ったら、もっとあねさん、たきつけるんやった」  と、辰と豆六があきれかえって、ヒソヒソ話をしているところへ、奥からでてきたのはお粂である。お粂は妙にしょんぼりして、 「辰つぁん、豆さん、後生だから、おまえさんたち、親分を迎えにいってきておくれ」 「へえ、そら、迎えにいってもようがすが、夫婦げんかのむしっ返しはいやですぜ」 「いいえ、そうじゃないの。考えてみると、あたしすこし、焼きすぎたような気がする。うちのはあんな性分だから、ひょっとすると意地になって、ほんとにその比丘尼と深間になってはたいへんだから、いまのうちに呼んできておくれ。あたしよウくあやまるから、辰つぁん、豆さん、お願い」 「それみなはれ。だいたいあねさんのヒスがひどすぎる。そやそや、親分意地にならはったにちがいない。このまんまほっといたら、きっとあのお姫と……」 「なんしろ、あれゃべっぴんだからね。品があって、あいきょうがあって、ご大家のお嬢さんといっても恥ずかしくねえ女だから、親分、妙な気になっても、とがめるわけにゃいかねえ」  などと、辰と豆六がいやに落ち着いているから、お粂はいよいよ気をもんで、 「だからさ、後生だから、はやく迎えにいっておくれ。一刻《いっとき》おくれて、取りかえしのつかないことになってはたいへん。さあ、ここに駕篭代《かごだい》があるから……親分さえかえってくれれば、おまえさんなどどうでもいい。遊びたけれゃ遊んでおいで」  これはちとごあいさつだが、辰と豆六おおよろこび、金をつかんでとび出すと、迷い子の迷い子の親分やアいとばかりに、大川端までやってくると、道につんだ材木のかげから、 「おっ、そこへいくのは辰と豆六じゃねえか」  と、声をかけたものがある。  佐七だった。 「あれ、親分、こんなところでなにしてるんです」 「あんた、お姫に会いにいきやはったんやおまへんのんか。それとも、お姫にふられて、身投げの思案でもしてなはったんかいな」 「バカ、ウダウダいわずにこっちへはいれ。だれも見てやアしめえな」 「へえ、だれも見ちゃアいませんが、親分、ど、どうしたというんです」  なんとなくようすありげな佐七の素振りに、辰と豆六が、積みあげた材木のかげにはいっていくと、 「どうしたのかおれにもわからねえんだが、まあいい、もうしばらく待っていよう。豆六、いま何刻《なんどき》ごろだえ」 「へえ、もうかれこれ四つ半(十一時)でしょう」 「四つ半か。あいつがいったのがほんとうだとすると、もうそろそろやってくるじぶんだがなあ」  と、佐七はなにやら真剣なかおいろだから、辰と豆六は、きつねにつままれたように顔を見合わせた。  夢幻の色比丘尼   ——四つ目|菱《びし》のちょうちんバッサリ人殺し  ゆうべの比丘尼宿は鶴亀《つるかめ》といううちであった。会のなかばに佐七がもよおして、席を立ってご不浄へはいろうとすると、あとから追っかけてきたひとりの比丘尼が、 「親分さん」  と、あたりをはばかるような声である。佐七が無言のままふりかえると、 「おまえさん、お玉が池の親分さんでございますね」  と、うわ目づかいに佐七を見ながら、念を押すような尋ねかたである。  そこにかかっている掛《か》け行灯《あんどん》の光でみると、それはお姫という一座でいちばんきれいな比丘尼であった。  なまめかしい大振りそでに、赤い頭巾《ずきん》で丸めた頭をつつんでいるのも色っぽい。右の上くちびるにポッチリと小さいほくろがあるのも、男の好きごころをそそるようだ。 「おお、おれは、いかにもお玉が池の佐七だが、なにか用かえ」 「はい、あの……」  と、お姫は口ごもりながら、ソワソワあたりを見まわして、 「親分さんのお耳にいれておきたいことがございまして……」 「おれの耳にいれておきたいこととは……」 「はい、あの、明晩……」  と言いかけて、お姫はまた口ごもった。  佐七はひょっとすると、くどかれるのではないかと思ったが、あいての顔色を見るとそうでもなさそうだ。男をくどくようななまめかしさはなく、なにかしら妙に思いつめた目つきである。 「明晩……? 明晩どうしたというんだえ」 「はい、あの、それが……」 「おい、お姫、おまえ、たしかお姫といったな」 「はい……」 「そのお姫が、このおれに、あしたの晩どんな話があるというんだ。おまえのようなべっぴんにくどかれるのならうれしいが……」 「あれ、親分さん、そんなういた話じゃございません」 「ういた話じゃねえ。そいつはおおがっかりだが、お姫、そんなにじらさねえでいってくれ。あしたの晩、どうしたというんだえ」 「はい、あの、すみません。ひょっとすると、あしたの晩、ひと殺しがあるかもしれぬと思いまして……」 「な、な、なんだとゥ?」  佐七はぎょっとあいての顔を見おろしながら、 「おい、お姫、もういちどいってくれ。あしたの晩、なにがあるかもしれぬというのだ」 「はい、あの、ひと殺しが……」 「そ、そ、そして、ど、どこでひと殺しがあるというんだ」 「はい、あの大川端で……四つ半ごろ……」 「そして、殺されるのはいったいだれだ」 「そのおかたの名前は申せませぬが、四《よ》つ目菱《めびし》のちょうちんが目印、それをめあてに悪者が切りつけるはずでございます」 「その悪者というのは、いったいだれだ」 「それはわたしも存じませぬ、親分さん、そのおかたを助けてあげてください。わたしのお願いというのは、ただそれだけでございます」  それだけいうと、お姫はひらりと振りそでをひるがえし、薄暗い廊下を足音もなく、影のようにすべっていった。  佐七はよほどそのあとを追おうかと思ったが、あいにくひどく催していたので、どうせあとでお座敷できけることだと、そのまま厠《かわや》へとびこんだ。  その晩、鶴亀の座敷へ出た比丘尼は、つごう五人だったが、そのなかで、ひときわひと目をひいたのが、お長、お姫という姉妹比丘尼《きょうだいびくに》。  お長というのは二十二、三、いくらかとうが立っているが、妹のお姫はまだ十七、八、番茶も出花というとしごろ、しかも、姉妹そろったうつくしさは、吉原の花魁《おいらん》にもこういうのはあるまいといわれるくらいだ。 「それにしても……」  と、佐七は用を足しながらかんがえる。 「あした人ごろしがあるということを、お姫はどうして知っているのか。お姫はどうやら、殺される人間というのを知っているらしいが、それなら、なぜあいてに知らせてやらないのか。あいつ、気でも狂っているのじゃないか……」  まあ、どちらにしても、もういちど詳しくききただせばわかることだと、それからまもなく厠をでた佐七が座敷へくると、もうすでに酒が十分まわっているので、一座は 大陽気の大乱痴気。  佐七がすばやくみまわすと、よいあんばいに、お姫は辰と豆六のあいだにすわって酌《しゃく》をしている。なにかふたりにからかわれたとみえ、耳たぶまであかくしているのもういういしい。 「これ、辰、豆六、こんな若い子をからかうもんじゃねえ。ほら、みろ、こんなにあかくなってるじゃねえか」  と、佐七があいだへわりこむと、 「わっ、親分、あつかましい」  と、豆六は杯をもったまま、仰山そうにうしろへひっくりかえる。 「あっはっはっ、おれのあつかましいのはうまれつきだ。これ、お姫、ちょっとおれのほうへよれ」  と、手をとってひきよせると、 「わっ、親分、ずるいよ、ずるいよ。あっしゃもう少しのとこで、この子と話ができかけているのに……」  と、辰は口をとんがらせる。 「あっはっはっ、お姫、あんなやつのいうことをきくな。それよりおれと……」  と、引きよせたお姫の耳に口をよせると、 「お姫、さっきの話はどういうんだ。もうすこし、詳しい話をききてえが……」 「さっきの話とは……?」 「それよ、おれを厠《かわや》のそばまで追っかけてきて、さっきいってくれた、話があるじゃねえか。あれゃどういうんだ」 「あれ、まあ、親分さん」  と、お姫はあきれたように佐七の顔をふりかえって、 「おまえさんなにか勘ちがいしていらっしゃるんじゃありませんか。あたしゃさっきからこの席を立ったことはございません」 「な、な、なんだと」  佐七はおどろいてあいての顔を見直したが、いかにほの暗い行灯《あんどん》の光とはいえ、この顔を見ちがえるはずがない。右の上くちびるにあるほくろまでちゃんと見おばえているのである。 「お姫、はぐらかすのはよしてくれ。おまえはさっき、厠のまえまで……」 「あれ、あたし、どうしましょう。兄さん、なんとかいってください。親分さんがお立ちになってから、あたしゃいちどもこの席を立ったことはございませんねえ」 「そうとも。そうとも。おまえが立とうったって、このおれが離しゃアしねえ。親分、だれかほかの子と見ちがえたんじゃありませんか」  佐七は一座を見まわしたが、お姫と見ちがえるほどの器量の女はひとりもいない。 「親分さん、どうかなさいましたか。お姫がなにかご無礼でも……」  と、姉のお長が心配そうにやってきたが、姉妹とはいえ、見ちがえるというほどではない。それに、目印のあのほくろ……。 「辰、豆六、それゃほんとうか。お姫はずっとここにいたのか」 「はい、それは姉のあたしも請け合います。お姫はいちども席を立ちはいたしません」 「お玉が池。どうかしたのか。おまえさんが立ってから、だれもこの座敷を出たものはねえが……」 「お姫があんまりうつくしいので、お玉が池はボーッときたんじゃねえか」  ほかの親分衆にからかわれ、佐七はきつねにでもつままれたような気分で、お姫の顔を穴のあくほどみつめていた。  版元|蔦屋重兵衛《つたやじゅうべえ》   ——果たしてお姫の予言は当たったが 「親分、親分、いったいどうしようというんです。こんなところで、いったいなにを待っているんです。あっしゃ寒くなってきた」  月も星もないまっ暗がり、いまにもパラパラ落ちてきそうな空もようの道端に、おあつらえむきに積みかさねた材木の影。そこにたたずんで、さっきからなにごとかを待ちかまえている佐七である。  佐七にはどうしても、ゆうべのことが合点がいかない。  佐七はたしかに、厠《かわや》のまえでお姫の口から、こんやの殺人の予告をきいたのである。それにもかかわらず、お姫はいちども席を立たぬという。しかも、それにはおおくの証人さえあるのだ。  佐七もいちどは、きつねにつままれたような気持ちだったが、ことが神秘的なだけに、かえって捨てておけぬ気持ちだった。そこでくわしい子細もかたらずに、辰と豆六をひっぱり込んだというわけである。 「親分、ほんまになにを待っていやはりまんねん。こんなとこに立ってると、夜鷹《よたか》とまちがえられまっせ」 「バカをいえ、男の夜鷹があってたまるもんか」 「そらそうだすけど、わてもう、腹がへってたまりまへん。なにかあたたかいもんでも食わしておくれやす」  豆六はあいかわらず食い意地が張ってる。  もっとも、むりもないのである。半刻《はんとき》(一時間)あまり、当てもなく待っていては、腹もへってこようというものである。  時刻はもうかれこれ四つ半(十一時)、佐七もそろそろあきらめて、かえろうかと思いはじめていたところへ、両国橋のほうから、やってきたのは一丁の駕篭《かご》だ。 「おい、辰」  と、佐七はきっと駕篭のちょうちんに目をとめて、 「てめえは目がいいから見えるだろう。あの駕篭の棒鼻にぶらさがっているちょうちんの紋所はなんだえ」 「へえ」  と、辰は材木のかげから首をのばして、ちかづくちょうちんをみつめていたが、 「親分、あれゃ四つ目菱ですぜ」 「四つ目菱……?」  佐七はおもわず息をのむ。それじゃ、ゆうべ耳にした妙な予言はあたっていたのか。 「辰、豆六、気をつけろ」 「親分、ど、どうしたんです。四つ目菱のちょうちんがなにか……」 「しっ、口をきくな、黙ってろ」  三人が息をころして待っていると、駕篭は材木のまえをすどおりして、お米蔵のほうへまがっていった。垂れがおりているので、なかに乗っている人間はわからない。 「おい、あの駕篭をつけるんだ。気をつけろ。ひとにさとられちゃおしまいだぞ」  材木のかげからとび出した三人は、くらやみのなかを足音をしのばせ、みえがくれに駕篭のあとをつけていく。さっきもいったとおり、空には星も月もなく、黒い布をしいたような道にただひとところ、ちょうちんの灯がゆれている。  やがて駕篭はお米蔵をすぎ、割り下水のほとりまでやってきたが、と、そのときだ。とつぜん、くらやみのなかから、ばらばらととび出した黒い影が、バッサリちょうちんを切り落としたから、 「わっ、で、出たァ!」  とばかりに、駕篭屋は駕篭を投げだして、バタバタこちらへ逃げてくる。 「あっしまった、それ、辰、豆六」 「親分、がってんだ」  三人がバラバラかけつけると、ゆくてにあたって、 「うわっ、ひ、人殺しィ……」  と、そういう悲鳴は、どうやら、そうとうの年輩の男らしい。 「御用だ!」  佐七はくらやみのなかから声をかけた。三人の足音をきいて、すでに浮き足だったくせ者は、その声をきくと、 「しまった!」  とさけんで逃げ出すようすだ。 「それ、辰、豆六!」 「がってんだ、くせ者、待て!」 「御用や、御用や、神妙にしくされ」  いや、なにしろにぎやかなことで、辰と豆六がくせ者のあとを追っかけていったあとで、佐七は駕篭のそばへよっていった。  そして、切り落とされて燃えているちょうちんの光で、駕篭のなかをのぞいてみると、四十前後の、いずれは大店《おおだな》のあるじとおぼしい人物が、藍《あい》をなすったような顔色で、目をパチクリさせている。  佐七はその顔にちょうちんをつきつけて、 「もし、どこもおけがはございませんか」 「は、はい……さいわい、小鬢《こびん》をかすられただけですみましたが、おまえさんは……?」 「あっしゃお玉が池の佐七というもんですが、だんなはどちらの……」 「はい、わたしは本石町の草双紙屋、蔦屋《つたや》のあるじで、重兵衛というものですが……」  蔦屋というのは当時有名な版元、いまのことばでいえば出版屋だから、佐七もその名は知っていた。 「ああ、それじゃ蔦屋のだんなで……しかし、いまじぶん、どちらへお出かけで?」 「はい……」  と、重兵衛はちょっと鼻じろんで、 「このさきにめかけをかこってあるものですから……」  なるほど……と、佐七はうなずいたが、それにしても、妾宅《しょうたく》へかようにはすこし時刻がおそすぎる。  そこへ辰と豆六が、高手小手にしばりあげたくせ者の縄じりをとってひきかえしてきた。 「親分、どうやらくせ者はとらえましたが……」 「おお、ご苦労、ご苦労」  佐七がちょうちんをつきつけると、くせ者というのは三十二、三のいかにもふうの悪い、ならずものらしい男だった。 「だんなはこの男をご存じですか」 「いいえ、いっこう……いままでいちども会ったことはございません」  重兵衛は男の顔から目をそらすと、ほっとふかいため息である。あぶなく命をとりとめたのを、よろこんでいるのか、それともほかに子細があるのか。  佐七は重兵衛の顔色から、なんとなく腑《ふ》におちぬものを感じていた。  竹森騒動覚え書き   ——殺し屋をやとったのは一体だれか  この事件ははじめから、佐七にとってがてんのいかぬことばかりだが、調べていくと、いよいよわけがわからなくなってきた。  蔦屋重兵衛というのは豪放|磊落《らいらく》な粋人で、他人の著述を出版するのみならず、みずからも文筆の素養があり、二、三の著作を発表している。  なかでも有名なのは四、五年まえに出した『竹森騒動覚え書き』で、これは当時世間をさわがせた西国の大名、高森家のお家騒動の真相をくわしくしらべて、一字ちがいの『竹森騒動』として書いたものである。  いったい、この高森騒動というのは、大名秘史中の秘史で、世間にさわがれたわりに、真相がよくわかっていない。  ふつう世間にしられているところでは、奥平|将監《しょうげん》という悪家老が、主君のご愛妾《あいしょう》と結託して、その腹にできた若者を世に出すために、本妻腹の若殿を三人までつぎつぎと毒殺したということになっている。  ご公儀の評定所の裁きでも、やはりおなじような判決で、奥平将監は切腹を申しわたされ、高森家は半知をけずられた。  だから、当時、奥平将監といえば、悪人中の悪人のごとく世間からにくまれたものだが、蔦屋重兵衛のかいた『竹森騒動覚え書き』では、この将監のためにおおいに弁護してあるのだ。  すなわち、将監が三人の若殿を毒殺したのはよくないが、そうせざるをえないような原因が、若殿たちのほうにあった。竹森家の奥方、つまり、三人の若殿の母なるひとには、代々狂疾の遺伝があり、三人の若殿にもその徴候がはっきりあらわれていた。  そういう人物が家督をついだら、早晩、竹森家はつぶれてしまう。だから、将監は涙をのんで主君の若殿を殺害したので、そのために切腹を申しわたされるのは、覚悟のまえであったろう。  竹森家が半知でとりとめることができたのは、これひとえに将監のはたらきで、奥平将監こそは身をころし、悪名をかくごで、主家の滅亡をすくったのである……。  というのが、『竹森騒動覚え書き』における重兵衛の意見だった。  この重兵衛の意見の当否はべつとして、いずれにしても町人のぶんざいで、天下の政道にくちばしをいれたのだから、ただではすまない。  あやうく遠島になるところだったが、日ごろのおこない神妙なりとあって、手錠百カ日と、版木焼却ということですんだのは、重兵衛のしあわせだった。  つまり、蔦屋重兵衛というのは、そういう豪放、侠気《きょうき》のある人物だが、さて、こんどの一件について、重兵衛はまったく心当たりがないという。ひとにうらみをうけるようなおぼえはないし、ましてや、じぶんの命をねらっているものがあろうとは、ゆめにも思えぬというのである。  ところで、重兵衛をねらったくせ者だが、そいつは般若《はんにゃ》の寅蔵《とらぞう》といって、金にさえなればひと殺しであろうが、かどわかしであろうが、なんでもやってのけようというならずもの。ところが、この寅蔵の白状するところによると、かれじしん、重兵衛に恨みがあるわけでもなく、ある人物から重兵衛を殺してくれとたのまれたというのである。  ところが、そのたのみ手だが、おかしなことには寅蔵じしん、だれかしらないというのだ。 「いえ、これはけっしてうそではございません。いまから五日まえのこと、ばくちに負けてぼんやりかえってくると、家のなかに手紙にそえて金十両。その手紙というのが、いつ何日の何刻《なんどき》ごろ、四《よ》つ目菱《めびし》のちょうちんをぶらさげた駕篭《かご》が大川端をとおるから、それをつけて、なかにのっている男を殺してくれ。うまくいったら、あと十両とどける……と、そんなことが書いてございますんで、あっしゃ駕篭にのっているのがどこのだれともしらずにやったことなんで」  まことに乱暴な話だが、うそをついているようにもみえない。  だいいち、証拠の手紙をもっているから、疑いの余地もなかったが、手紙には差し出し人の名前がなかったから、どこのだれともわからない。  これではまるで雲をつかむような話で、重兵衛を殺そうとしたのが、どこのだれか見当もつかない。  そこで、翌日、辰と豆六にめいじて、蔦屋の内幕をさぐらせてみると、重兵衛はだいぶまえに女房をうしなったが、後添いというものをもたずに、本所割り下水のむこうに、お仲というめかけをかこっている。 「お仲というのはどういう女だ。稼業《かぎょう》にでもでていた女か」 「いえ、それがそうじゃねえんで。山田|道庵《どうあん》という町医者の娘なんですが、おやじの道庵というのが、腕はいいがひょうばんの道楽もんで、うちのなかはいつも火の車、お仲は泣きの涙で暮らしていたそうですが、そのうちに重兵衛が見初めてめかけにしたんです」 「そのめかけになにかあるんじゃねえのか」 「さあ、そこまではわかりまへんが、重兵衛はこの春いちど、吐血したそうです。しかし、それいらい、べつにどういうこともなく、昔からよくあそんだ男やそうだすが、ちかごろはまた家を外の放蕩三昧《ほうとうざんまい》やそうだす。なんせ道庵ちゅうええ相棒がおるもんだっさかいにな」 「なんだ、めかけのおやじが、あそびのおあいてをつとめているのか」 「へえ、もうこれが遊びときたら目のない男だそうですからね」 「それじゃ、店はだれがきりまわしているんだ」 「それは与三郎といって、重兵衛の腹ちがいの弟がいるんです。先代がめかけにうませた子どもなんですね。それが若いときから番頭がわりにはたらいているんです」 「重兵衛にゃ子供は……?」 「永太郎にお菊と、男と女がひとりずつ。しかし、永太郎はまだ二十《はたち》ですから、商売のほうは叔父《おじ》の与三郎がきりまわりしてるんです」 「ところで、重兵衛のひょうばんはどうだ。だれかの恨みをかってるって話はねえか」 「いえ、それがかいもくねえから困るんです。重兵衛は侠気《おとこぎ》にとんだ人物で、どこへいってもひょうばんがいいようです。しかし、親分」  と、辰はひざをのり出して、 「親分はどうしてあのことを知ってたんです。ゆうべあそこで重兵衛がおそわれるということを……」 「いや、それはいずれ話をするが……」  と、佐七はちょっと思案をしていたが、 「とにかく、いちど重兵衛のようすをみてこよう。あいつなにか、かくしていることがあるんじゃねえかと思うんだが……」  まか不思議色若衆   ——今夜お父さんを出さないように  たとえかすり傷にしろ、ゆうべあんなことがあったのだから、恐怖のあまりひょっとすると寝込んでいるのじゃあるまいかと思いのほか、重兵衛はおりから見舞いにきた道庵《どうあん》やめかけのお仲、さては異母弟の与三郎をあいてに酒をのんでいた。  佐七が顔を出すと、 「やあ、お玉が池の親分、ゆうべはお世話になりました。あんまりびっくりしたもんで、ろくろくあいさつも申し上げずに……きょうは命拾いをした祝いに、一杯やっているところです。おまえさんもひとつどうです」  と、重兵衛はいたって元気なものである。 「いや、わたしはひかえましょう。これからまだいかねばならぬところがありますから。ところで、だんな、だんなはこの筆跡に見おぼえはございませんか」  と、佐七がとりだしたのは、般若《はんにゃ》の寅蔵《とらぞう》に殺人を依頼した、差し出し人不明の手紙である。  重兵衛はそれを読むと目をまるくして、 「あっ、それじゃ、あれはやっぱり、わたしをねらって切りつけたんですか。わたしゃまた追いはぎ強盗か、ひとちがいと思っておりましたのに……」  弟の与三郎もその手紙を読むと、はっとしたように目をみはり、 「親分、これはたいへんでございます。兄さんは物取りか、ひとちがいのようにおっしゃいましたが、これでは兄の命をねらっているものがあるようです。どうぞ、兄さんをお守りくださいませ」  与三郎というのは二十七、八、めかけの子どもというだけあって、色白のきゃしゃなよい男である。医者の道庵とめかけのお仲も、手紙をよむとびっくりしたように顔見合わせる。  道庵というのは坊主頭の脂ぎった大男で、としは五十の坂を出ているのだろうが、いかにも好色家らしいヒヒおやじ。その娘のお仲というのは二十四、五、これこそ、とんびがたかをうんだというんだろう。ぽっちゃりとしたよい器量である。 「どうでしょう、みなさん、だれかその筆跡に心当たりは……?」 「いえ、あの、いっこう……」  与三郎はひくくこたえたが、気のせいか、その声はふるえているようだった。 「だんなや、道庵さん、お仲さんは……?」  しかし、だれもその筆跡に心当たりがあるというものはなかったし、また、手紙のぬしについて、思いあたるところもないと答える。  佐七はその手紙をふところにしまうと、 「ときに、だんな、つかぬことをお尋ねするようですが、だんなはお姫という色比丘尼《いろびくに》をご存じじゃございませんか」  お姫ときいて、辰と豆六ははっとしたように顔を見合わせる。しかし、重兵衛はふしぎそうにまゆをひそめて、 「お姫……? いいえ、知りませんね。その女がどうかしたんですか」 「いや、べつに……しかし、だんなはちかごろ、比丘尼とおあそびになったことはございませんか」 「そうそう、そういえば、とっつぁん」  と、重兵衛は道庵のほうへむきなおり、 「このあいだおまえさんと遊んだとき、呼んだ比丘尼はなんという名前だっけな」 「だんなのおあいてに出たのは、お長というひょうばんの子でしたが、そうそう、そのお長の妹が、たしかにお姫といったっけ」 「それじゃ、だんなはお長とあそんだことがおありなんですね。そのとき、お長のようすに、なにか変わったことでも……」 「いえ、べつに……はじめてにしちゃ、たいそう実意をみせてくれましたが……あっはっは、お仲、おまえにゃわるかったが、こっちァいまひょうばんの色比丘尼ってどんなものかと思って呼んでみたのだ。しかし、親分、そのお長という子がどうかしましたか」  と、重兵衛はいかにもふしぎそうな顔色である。  重兵衛はお長とあそんだことがあるという。これで、重兵衛とお姫のあいだにいくらかつながりができたようなものの、しかし、いちどあそんだくらいで、重兵衛の身にふりかかる災難を、お長やお姫が予知するはずがない。 「だんな、ほんとにそのとき、なにごともなかったんですか。だんなはだれかに恨まれているというようなことを、お長におっしゃいませんでしたか」 「そんなことをいうはずがない。だいいち、わたしゃだれにも恨まれるようなおぼえはないから……」  せっかくつながった糸も、これでまた、雲をつかむように薄れてしまった。  それからまもなく、佐七は辰と豆六をひきつれて蔦屋を出たが、すると、ものの半町といかぬところで、 「もし親分さん」  と、うしろからやさしい声で呼びとめられて、三人はふっとうしろをふりかえった。  見ると、そこに立っているのは、十六、七の、それこそ絵から抜け出したようなきれいな娘だ。なにかしら思いつめたような顔色で、目に露をためているところをみると、なにかよほどおおきな屈託があるらしい。 「あいよ。おれになんか用事かえ」 「はい、あの……」  と、娘はあたりに気をかねてもじもじしている。 「おまえさんはどこの……?」 「はい、あの、わたしは蔦屋の娘でお菊と申します」  佐七は辰や豆六に目くばせして、 「ああ、そう。それで、そのお菊さんが、いったいおれにどういう用事があるんだえ」 「はい、あの、それが……」  と、お菊はあたりを見まわして、 「じつは、きのうの夕方、妙なことがございまして……」 「妙なことというのは……」 「はい、あの、それがかようで……きのうの夕方、わたしがおけいこごとからのかえりがけ、裏木戸からなかへはいろうといたしますと、そこに立っていたきれいな若衆さまがわたしを呼びとめ、あなたは蔦屋さんのお嬢さんかとおっしゃいます。それで、わたしがそうだと申しますと、こんやはけっしてお父さんを外に出してはならぬとおっしゃるんです。わたしがみょうに思ってお顔を見ておりますと、こんやお父さんが外にお出になると、お命にかかわるようなことができるかもしれないから、くれぐれも気をつけるようにとおっしゃって、そのまま、すたすた、むこうへいっておしまいになりました」  佐七はまた辰や豆六と顔見合わせた。 「そして、おまえさんはお父さんにそのことを……」 「はい、それは申しつたえました。お父さんも、びっくりしたような顔をしていらっしゃいましたが、おおかただれかがからかったのだろうといって……」 「お出かけになったんですね」 「はい、兄とふたりで、さんざん止めたのでございますが……」 「それで、お菊さん、その若衆というのは、どのようなみなりでございましたか」 「はい、あの、それが、女のように振りそでをきて……でも、それはそれは、きれいなおひとでございました」  お菊から若衆の服装というのをきくと、どうやら陰間《かげま》、すなわちいまのことばでいえば男娼《だんしょう》らしかったが、しかし、その陰間がどうして重兵衛の災難を予知していたのだろうか。  離魂病夫婦問答   ——船遊山の晩にだんなが殺されます  なにを考えたのか、それから佐七は辰と豆六をひきつれて、毎晩のように鶴亀《つるかめ》がよい。しかし、べつに色比丘尼とうわきをするふうでもなさそうだし、それに大川端の一件があるから、お粂も鳴りをしずめているが、そうはいっても気が気でない。 「辰つぁん、豆さん、ほんとに大丈夫なんだろうね。まさか、おまえさんたちまでぐるになって、あたしを担いでいるんじゃ……」  もしそうなら、ただではおかぬというけんまくに、辰と豆六、ちかごろすっかり恐れをなし、 「いえ、あねさん、そんなことは絶対に。そこはちゃアんとこちとらふたりが目をさらにしてますから、どうぞご安心なすって」 「そのこちとらふたりが、怪しいんじゃないのかねえ。まさか親分にあめしゃぶらされて……」 「あねさん、そのお疑いはごもっともだっけど、こんどばっかりはうそもかくしもおまへん。ただ、ちょっと気がかりなんは……」 「ただ、ちょっと気がかりなのは……?」  お粂ははやもう顔色がかわっている。 「兄い、親分はやっぱりあのお姫に気があるのんとちがうやろか」 「気があるって、それじゃ、豆さん、親分がお姫とやらをくどくのかえ」 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。気があるったって、親分のほうからくどくんじゃなく、お姫のでかたを待ってるってえかっこうなんで」 「そ、それじゃやっぱり、おんなじことじゃないか。親分、やっぱりそのお姫に……」 「そ、そ、それがちがいまんねん。どうもわてらにはようわかりまへんが、このあいだの大川端の一件だんな」 「あの一件について、親分は、お姫がなにか知ってるんじゃないかって、お見込みらしいんで」 「そんならなんにも遠慮することないじゃないか。お姫とやらをひっぱたいて……」  こと恋の遺恨となると、お粂もいうことがあらっぽい。 「それがどうも、そうもいかねえ事情があるらしいんで」 「その事情とはなんなんだね」 「それがわてらにはわかりまへんねん。親分、こんどはえろう秘密主義や」 「そこが臭いんじゃないのかえ。ええッ、じれったい」 「じれってえのはこっちのことですよう」 「まあまあ、あねさん、そう気を高ぶらせずに、わてらを信用してておくれやす。われわれ辰と豆六は、お玉が池の名誉にかけて、正々堂々とたたかうことを誓いまアす」  いやはや、たいへんなことになったものだが、そういう雲行きとしるやしらずや、佐七はその後も長梅雨のなかをいといもせず、辰と豆六をひきつれて石原がよい。  そして、いつもお長とお姫、それから二、三人の色比丘尼をよぶと、蔦屋のことはなんにもふれず、ただおもしろおかしく酒をのんでかえるだけだが、すると、佐七がかよいはじめてから六日目のこと。  酒宴なかばに佐七が席を立つと、 「あら、親分さん、どちらへ……?」  お姫のあまえるような声である。 「ちょっと厠《かわや》へいってくる。色消しなはなしだが、年をとると小用がちかくていけねえ」 「あら、ご冗談を……」  お長やお姫のはなやかな声をあとにして、佐七が厠のまえまでくると、うしろのほうで足音がする。ふりかえってみると、このあいだとおなじように、お姫がほの暗いところに立っている。 「あっ、お姫……」  佐七はちょっと身内がすくむ思いである。  お姫はにっこり笑って、 「親分さん、このあいだはありがとうございました。よく蔦屋のだんなをたすけてあげてくださいました」 「おい、お姫、おまえはほんとにお姫か」 「はい」 「おまえは蔦重《つたじゅう》のだんなと、どういう縁があるんだ」 「それは申し上げられません。しかし、親分、そろそろ梅雨もあけそうですわね」  お姫は妙なことをいいだしたが、佐七はなにも気がつかず、 「そういえば、さっきどっかで、遠雷の音がしていたようだな。おかげで辰め、こんやはすっかり意気地がねえのよ」 「あら、それはどういうことですの」 「なあに、こっちのことよ」  辰の雷ぎらいはみなさん先刻ご承知だが、それはここでいうべきことではない。  佐七はにが笑いをしながら、 「梅雨のあけ遠雷を暦かなといってな。このぶんだと、二、三ちうちに梅雨もあけるだろうが、お姫、それがどうかしたのか」 「梅雨があけると、蔦重さんでは両国から船遊山をおだしになります」 「ふむ、ふむ、それで……?」  と、佐七は気味わるそうに首をちぢめた。 「その節、ほかの舟から切りこんでくるものがございますから、どうぞそのおつもりで……」  それだけいうと、お姫はひらりと振りそでをひるがえし、くらい廊下を足音もなくすべるように消えていく。 「おい、お姫!」  佐七はおもわずうしろから呼びかけながらあとを追ったが、その声をききつけて、 「あら、親分、どうかなさいましたか」  と、座敷の障子をひらいて顔を出したのはお姫である。佐七はぎょっとその顔を見なおして、 「お姫、おまえはずっとこの席にいたのか」  と、あきれたような目つきになる。 「はい、ここで兄さんがたのおあいてをつとめておりましたが……」  お姫もふしぎそうに佐七を見ている。そのうしろからきんちゃくの辰が、 「親分、親分、どうしたんです。また、妙なことをいい出したじゃありませんか」  遠雷もたいしたことなく通りすぎたので、辰も生色をとりもどしている。 「お姫ならずっとこの席におりましたがな」  豆六もそのあとから保証した。  佐七は目《ま》じろぎもせずにお姫の顔をみつめていたが、やがてほろ苦い微笑をうかべると、 「あっはっは、おれはちかごろどうかしているようだ。なにか憑《つ》き物《もの》がしてるのかもしれねえ」 「あれ、気味のわるい。親分、ほんとにどうかなさいましたか」 「いや、まあ、なんでもいい。もういちど小用にいってくるから、お姫、こんどはおれについてきてくれろ」 「はい」  こんどはべつにかわったこともなく、ぶじに用をたして座敷へかえると、 「ときに、お長」 「はい」 「おまえ、このあいだ、蔦屋《つたや》のだんなのお座敷へ出たというじゃないか」 「蔦屋のだんなとおっしゃいますと……?」  とぼけているのかしらないのか、お長はふしぎそうに佐七の顔を見まもっている。 「ああ、そうか、そうか。おまえたちをあいてにする客は、いちいち名前を名乗らねえからな。それじゃいうが、海坊主のようなたいこ医者といっしょにきただんなだ。なんでもおまえ、たいそう実意をみせたというじゃねえか」 「ああ、あのかた……」  と、お長はちょっとほおをそめる。 「思い出したかえ。あのとき、だんなとおまえのあいだに、なにかあったんじゃねえのか」 「いいえ、べつに……」  と、お長はふしぎそうな顔色だったが、 「ああ、そうそう、そういえば、たいそうお酒を召し上がるので、そんなにお飲みになってはおからだにさわりますとご意見を申し上げたら、どうせ飲んでも飲まいでも、あとわずかな命だからとおっしゃって、なにやら、さびしそうな顔をなさいましたのがいまもって気にかかっておりますけれど……」 「なんだ、そんなことをおっしゃったのか」  佐七はふっと辰や豆六と顔見合わせた。  その晩はそれでかえったが、どうしても気になるのは、厠《かわや》のまえまでおっかけてきたまぼろしのお姫のことばである。 「なあ、お粂」  と、女房のお粂をふりかえって、 「いつかこのおれが、離魂病に、とりつかれたって騒ぎがあったが、世の中に離魂病というのは、ほんとにあることだろうかなあ」 「まあ、いやだ、おまえさん、気味のわるいことをいわないでくださいよ。あのときは、わたしが悪かったんだから……」  と、お粂は行灯《あんどん》のかげでまゆをひそめる。 「親分、離魂病がどうしたんですか」  と、辰と豆六もひざをすすめる。 「まあ、聞け、こうよ。おれはどうもふしぎでならねえ」  と、このあいだの一件から、またこんやの話をかたってきかせると、一同はおもわず息をのんだ。  なかでもお姫のことで大やきにやいたお粂は、やっと合点がいったように、佐七のそばにすりよって、 「まあ、おまえさん、ごめんなさい、そんなこととはつゆしらず……でも、それじゃそのお姫というのが離魂病だというのかえ」 「しかし、親分、離魂病にしたところで、お姫が蔦屋の災難をしってるというのが、ふしぎじゃありませんか」 「それよ。だから、おれもおかしいと思うんだ。もし、そのうち、重兵衛が両国から舟をだし、その舟に切りつけてくるものがあるとすると……」 「わっ、親分、わてなにやらゾクゾクしてきた」  殺し屋浪人やくざ   ——比丘尼のお長にお礼をいうことです  佐七が予言したとおり、その翌晩、江戸中を震撼《しんかん》させるような大雷雨があって、辰の心胆をさむからしめたが、そのかわり、さしも長かった梅雨もあけたらしく、そのつぎの日からは、かんかん照りの盛夏にはいった。  いったい、江戸時代の両国の船涼みは、五月二十八日をもって幕を切っておとされるとしたものだが、いまの暦でいうと六月下旬か七月上旬。  梅雨がはやくあけた年はよいが、ことしみたいに長っ梅雨だと、川開きがあったとしても、もうひとつ景気がわかない。  それがやっと梅雨もあけたとあって、待ちわびた客がどっと押しかけたから、柳橋の船宿はどこもかしこもてんてこ舞い。  佐七は梅雨があけるまえから、辰と豆六をやって、ひそかに蔦屋のようすをさぐっていたが、はたして梅雨があけて三日目の夕方、辰と豆六がかえってきての報告に、 「親分、たいへんだ。やっぱり、お姫のことばはあたった」 「辰つぁん、それじゃ蔦屋さんではやっぱり船を……?」  お粂はあおくなっている。 「さいだす、さいだす。それも今晩やいうんだっさかい、親分、こら、ぐずぐずしてはいられまへん」 「ようし、お粂、支度だ」  あらかじめ蔦重のなじみの船宿は辰と豆六がしらべておいた。佐七はその船宿から蔦重がごうせいな屋形船をだすのを見送って、じぶんもなじみの船宿から、辰と豆六をひきつれて、小型の猪牙舟《ちょきぶね》をこぎだした。  時刻はまさに五つ(八時)。  なにせ長梅雨で、うんざりしていたところだから、わっとばかりに屋形屋根船がおしだして、空には玉屋、鍵《かぎ》屋の花火がポンポンといせいよく七彩の虹《にじ》をえがき、川のうえには、声色舟に浄瑠璃舟《じょうるりぶね》、食べもの売りの舟がこぎまわり、涼み客のごきげんをとりむすぼうというのだから、さしもにひろい大川も、舷《げん》々相摩し、舳艪《じくろ》相ふくむはちとおおげさとしても、いや、もうたいへんなにぎわいだ。  その屋形船や屋根船にしてからが、それぞれ芸者末社をはべらせて、ドンチャンさわぎをやっているのもあるが、なかには船頭にゆっくり船を流させながら、その暑いのに障子をしめきり、妙にひっそりとしているのは、なかでなにをしているのであろうかと、辰や豆六には気にかかる。  さて、もんだいの蔦屋の船だが、なかにはたいこ医者の道庵とめかけのお仲、ほかには異母弟の与三郎、とりもち役として柳橋の美妓《びぎ》が二、三人。むらがる船のなかでも、とりわけ陽気でにぎやかで、重兵衛もいたってじょうきげん。これがひとから命をねらわれている人物とはおもえない。 「親分、ほんとに切りこんでくるやつがあるんでしょうかねえ。こうみたところ、いたって平穏無事のようですが……」 「そやそや、お姫のやつ、なんぞ夢でもみたんとちがいまっしゃろか」 「ふむ、しかし、このあいだの大川端のことをおもうと、やっぱり……あっ、船頭ッ、舟を……」  佐七がさけんだときである。むらがる舟をかきわけて、ツツーと一隻の小舟が重兵衛の舟にちかよっていったかと思うと、があっと刀をふりあげたのは、浪人者とおぼしい五分|月代《さかやき》の男である。 「重兵衛、覚悟!」  と、及び腰に切りつけたが、そのとたん、風をきってとんできたのが佐七の十手、眉間《みけん》へまともに当たったから、目がくらんだのか、くだんの浪人、手もとがくるって、ザックリ舷《ふなばた》へきりこんだところを、 「御用だ」 「御用や、御用や!」  辰と豆六が浪人者の舟へとおどりこんでいた。  ところが、その浪人者をとらえて、蔦屋の船にひっぱりあげてしらべてみると、これがいよいよ妙なのである。  その浪人、名前を柳田鉄之進といって、ひょうばんの無法者だが、これまた蔦屋重兵衛にかくべつのうらみはないという。般若《はんにゃ》の寅蔵《とらぞう》のばあいとまったくおなじで、いつのまにやら、手紙と十両がほうりこんであったが、手紙には差し出し人の名前がないから、たのみ手がどこのだれともわからぬという。  鉄之進はその手紙をふところに持っていたので、取り出してみると、まぎれもなく、寅蔵のところへきた手紙とおなじ筆跡だった。 「だんな」  と、佐七は重兵衛のほうへむきなおって、 「だれかだんなに、こんやここへ舟を出すようにすすめたやつがあるんですか」 「いいえ、親分、そんなことはありません。これはわしが思いついたんです」 「いつ……?」 「きょう昼間……天気がよいから、こんやはよい船遊びができるだろうと思って、船宿へ舟をあつらえておいたんです」  ところが、鉄之進のところへ手紙がとどいたのは、きのうの夜のことである。重兵衛がこんや舟を出すということを、それではだれが、あらかじめしることができたのだろうか。  辰と豆六はゾクリとしたように顔見合わせる。 「それじゃ、ここにいらっしゃるかたがたも、こんやここへだんなが舟をお出しになることをご存じじゃなかったんで」 「それゃしるはずがない。夕方ごろ、お父っつぁんとお仲のところへ使いをだし、船宿までくるようにいってやったんだから」 「わたしも兄さんから、だしぬけに船遊びにいこうと誘われたので、夕方まではなんにも存じませんでした」  弟の与三郎もあおざめたくちびるをなめている。 「しかし、親分」  と、重兵衛もふしぎそうに佐七を見て、 「このあいだといい、こんやといい、たびたび災難をすくってくだすって、なんともお礼の申し上げようもないが、親分はなにかご存じで」  そういう重兵衛の顔色を、佐七はさぐるようにみかえしながら、 「いや、あっしゃなにもしりません。あっしじしん、きつねにつままれたような気持ちですが、礼をおっしゃるなら、だんな」 「はい」 「色比丘尼のお長におっしゃるのがよろしゅうございましょう。お長がなにかしっているようでございますから」  重兵衛はそれをきくと、はっとしたように顔色をうごかしたが、ジロリとそれをしり目にみて、 「辰、豆六、さあ、いこう。その浪人者をとりにがすな」  と、佐七は屋形船から立ちあがった。  男女ふたごの兄妹《きょうだい》   ——竹森騒動覚え書きに書いてある  それから二日のちの夕方のこと。 「親分、親分、やっぱりおまえさんのいうとおりだ。比丘尼のお姫に生き写しの陰間をみつけてきましたぜ」  大声で叫びながらとびこんできたのは、いわずとしれた辰と豆六。みると、そのうしろには、女のように大振りそでをきた前髪の若衆が、はずかしそうにうなだれている。 「おお、そうか。そして、その子はなんというんだえ」 「吉弥《きちや》さんといって、葭町《よしちょう》ではいまいちばんの売れっ子だそうで」  なるほど、みれば吉弥は比丘尼のお姫とうりふたつ。これで髷《まげ》を頭巾《ずきん》でかくし、右の上くちびるにほくろをかいたら、だれだってお姫と見ちがえるだろう。 「あっはっは、吉弥、おぼえておいで。よくもおまえさん、二度までおいらをだましたね。おかげで、おれはお姫のことを、離魂病じゃねえかと気味悪がったもんさ。あっはっは」 「親分さん、恐れいります」  吉弥は神妙に手をつかえる。 「しかし、親分」  と、豆六はひざをすすめて、 「親分はどうしてお姫とうりふたつの陰間がいるということをしっていやはったんや」 「なあに、それはわけはねえ。蔦屋の重兵衛が著した『竹森騒動覚え書き』を読みなおしておいたからよ」 『竹森騒動覚え書き』ときいて、吉弥ははっとしたように顔をあげると、みるみる紙のようにあおざめて、かわいい目にいっぱい涙をうかべる。 「親分、『竹森騒動覚え書き』がどうかしたんですかえ」  辰と豆六がふしぎそうにひざをすすめる。 「おお。あのなかに、奥平|将監《しょうげん》には三人の子どもがあり、うえが女で、その下に男と女のふたごがあったということが書きそえてあったからだ。吉弥さん、おまえさんは将監さんの忘れがたみなんだろうね」 「親分さん、それをだれにもおっしゃらないで……こんなあさましいからだになっては……」  と、吉弥はホロリと涙をおとした。  吉弥の話をきくとあわれである。  父将監が切腹したとき、姉のお長はまだ十六、お姫と吉弥は十二歳。にわかに孤児になった三人は、大悪人の子どもよと、だれひとりあいてにするものもなく、そこできょうだい三人手をたずさえて、国を出て江戸へくるとちゅう、悪者にだまされて、それぞれ身を売られたのである。  ところが、そののち、蔦屋重兵衛が父のために弁護の本を書いてくれたとき、ひそかに手をあわせておがんでいたが、その恩人の重兵衛に災難がふりかかってくるとわかったので、ああいう芝居で、佐七にすくいを求めたのである。 「しかし、吉弥さん、おまえさんたちはどうして、ああいう災難が蔦屋のだんなにふりかかってくるとしったんだ」 「さあ、それは……姉にきかねばわかりませぬ。わたしたちはばんじ、姉の指図にしたがっておりますので」 「よし。それじゃ、これからすぐに、お長のところへいって話をきこう。吉弥、おまえもいっしょにきてくれろ」 「はい、親分さん」  と、吉弥も悄然《しょうぜん》と立ちあがると、 「そのかわり、わたしどもが奥平将監の子どもであることは、くれぐれも内緒に……」 「ああ、わかった、かわいそうに。辰、豆六、お粂もかならずひとに漏らすな」 「はい、もう、それは……」  お粂もそっと涙をおさえている。  お長のすまいは本所の石原だったが、そのちかくまできたときには、もう夜もかなり更けていた。 「吉弥、姉さんの家というのは……?」 「はい、あの寺の裏側でございます」  と、さびしい寺の塀《へい》のそばまできたときだ。だしぬけに、 「ひと殺しい。助けてえ!」  と、暗がりのなかからとび出してきたのは、なんとこれから訪ねていこうとしているお長ではないか。 「ああ、おまえは姉さん」 「ああ、そういうおまえは吉弥かえ。あのひとがわたしを殺そうとして……」 「それ、辰、豆六」 「がってんだ」  と、逃げていくくせ者のあとを追っかけて、 「野郎! これでもくらえ」  と、辰の投げたつぶてをくらって、あっとよろめく男のうえから、折りかさねるように捕えた辰と豆六。 「親分、親分、ちょっとあかりを見せておくんなせえ。首尾よくとりおさえましたから」 「おお、ご苦労、ご苦労」  と、ちかよって、佐七のさし出すちょうちんのあかりに、はっきりうかびあがったのは、なんと重兵衛の弟、与三郎ではないか。  陰徳あれば陽報あり   ——お粂にとってはいたしかゆしで 「なに、与三郎がお長を殺そうとしたと?」  それからまもなく、与三郎を自身番にあずけた佐七が、辰と豆六をひきつれて、本石町の蔦屋へかけつけると、重兵衛はまるで晴天に雷でもきいたようにおどろいた。 「そんなバカな。そんなバカな! 与三郎はなんにもしらぬ。おれを殺させようとしたのは与三郎ではない」 「だんな、それはあっしもよくしっています。ねえ、だんな、お長がなんで、だんなの災難をいちいちあらかじめしってたかというと、このあいだ、だんながおかえりになったあとで、こういう覚え書きをひろったからです。これにはちゃんと、いつ何日、蔦屋の重兵衛をどこで殺す。そして、それにしくじったら、そのつぎにはこうすると、そんなことが書いてあるんです。だんな、見てください、これですがね」  佐七のとり出したとじこみをみると、重兵衛ははっと顔色をかえた。  佐七はじっとその顔に目をそそぎながら、 「だんな、こうなったら、なにもかも正直にいってください。じぶんを殺すようにたのんだのは、だんなごじしんでしたね。論より証拠、この覚え書きと二通の手紙、般若《はんにゃ》の寅蔵《とらぞう》と、鉄之進にあてたこの二通の手紙、これゃみんなだんなの筆跡のようですからね」  重兵衛はそれをきくと、はっと首をうなだれる。  おどろいたのは、そばで聞いていた息子の永太郎と娘のお菊。 「まあ、お父さまが、なぜそのようなことを……」  ふたりに左右から取りすがられて、重兵衛は苦しそうに吐息をついた。 「許してくれ、永太郎、お菊。このおれはな、ほっておいても、どうせながくはない命だ。じりじりと、病気にからだをむしばまれるよりは、いっそひと思いに殺してもらおうと思うてな」  重兵衛の目からホロリとあつい涙がおちる。  重兵衛は自殺しようとしたのであった。しかし、しゃれっけのつよい重兵衛は、ただの自殺では曲がないので、ああいうふうにひとに頼んで、はなばなしく殺してもらうつもりであった。  佐七はにんまり笑って、 「しかし、だんな、だれがそんなことをいったんです。ほうっておいても、どうせながくない命だなどと……」  重兵衛はしかしそれには答えずに、愁然としてくちびるをかんでいる。 「だんな。あなたがおっしゃらずとも、このあっしにゃわかっています。この春、吐血なすったという話だが、そのとき道庵《どうあん》がいったんでしょう」  重兵衛は、そうだとも、そうでないとも答えなかった。佐七はそれにかまわず、 「ところで、与三郎さんはそのことを知っていたんでしょう。与三郎がそれをしっていたら、なぜ、お長を殺そうとしたんです」 「親分」  重兵衛ははっと顔をあげ、 「与三郎はほんとにお長を殺そうとしたんですか」 「ほんとうですとも。あっしが現場をつかまえたんですから」 「与三郎はまたなんだって……?」 「さあ、それでさあ。与三郎も、道庵も、めかけのお仲も、このあいだみせた般若の寅蔵あての手紙がだんなの筆跡だと気がついた。そこで、三人ともだんながひとに頼んで殺してもらおうとしていらっしゃることをさとったんです。そして、それをひそかに待っていた。ところが、そのつどお長がじゃまをするもんだから、与三郎がお長をなきものにしようとしたんです」  重兵衛はびっくりして目をパチクリ。  佐七はひざをのりだして、 「ねえ、だんな、もしだんながほんとうにほっておいてもながくない命なら、なにもお長をころしてまで、だんなの計画の遂行されるのを待たなくてもよろしいはず。だんながしぜんと死ぬのを待てば、いいはずじゃあありませんか」 「親分、親分、そ、そ、それゃいったいどういう意味で……」 「だんな、悪いことは申しません。いちどしっかりした医者に診ておもらいになるんですね」 「親分、そ、そ、それじゃ道庵がわたしをだましたのか!」  重兵衛はぼうぜんたる目つきだった。  わるいやつは道庵親子と与三郎で、与三郎はかねてからお仲と通じ、なんとかして、兄の命をちぢめようとはかっていた。  そこへおこったのが春の吐血で、そのさい道庵にいいふくめて、半年持つか、もたぬかの寿命だといわせた。それによって重兵衛を精神的に殺していこうとはかったのだ。  ところが、重兵衛がその苦痛にたえかねて、ひとに頼んで殺してもらおうとしているのだとさとると、ひそかにそれが成功するのを祈っていたが、いつもお長がじゃまをするので、それを殺して重兵衛の計画を成功させようとしたのである。  むろん、三人はとらえられて、それぞれ重罪に処せられた。  重兵衛はただちに、しっかりした医者に診てもらったが、半年はおろか、養生さえすれば、あと十年でも二十年でも生きられるだろうといわれたときのよろこび。  これもお長、お姫、吉弥三人のおかげと、大金をだして三人を自由の身にすると、お長はじぶんのめかけに、また、吉弥とお姫もそれぞれ身が立つようにしてやったという。  いや、陰徳あれば陽報ありで、まことに結構なお話だが、さらに結構このうえなしのお話というのはこうである。  それからまもなく、お玉が池へ蔦屋重兵衛から、たいまいの謝礼金がとどけられたが、これではお粂もうっかりやくにもやけない。  どうやらこの一件、お粂にとってはいたしかゆしだったらしいと、ひとの悪い辰と豆六、その当座、額をたたいてよろこんだという。 [#地付き](完) ◆人形佐七捕物帳◆(巻三) 横溝正史作 二〇〇五年六月一日